2010年 10月 10日
Nik Baertsch (ニック・ベルチュ) - インタヴュー |
Nik Baertsch (ニック・ベルチュ)の最新インタヴューを掲載する。リリースされたアルバム "Llyria"を中心に語っている。
e-mail インタヴュー 2010/10/7 ドイツ、Ulm(ウルム)よりNik の回答
インタヴュー及び、日独/独日訳 - 伏谷佳代
以下、● が質問、NB がNick Baertschの回答
『Llyria』の第一印象は一見とても平穏で、禅における「悟り」の境地に近いものに感じられました。前作の『Holon』の魅力が音楽構造そのものの「緊迫と凪とのダイナミズム」にあったのと比較してですが・・・
● しかし、次第にそれはただの表面的な印象にすぎない、と思われてきました。むしろ、「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」自体としては、より強度を増しているのではないか。「実践の開示」そのもの、という点で(コンセプト、としての 「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」は立ち消え、ただの「実践」が全面に出ているという意味ですが)?
NB: 僕の家には日本人ダンサーの平敷秀人が住んでいるんだけれど、『Llyria』を聴いて彼が言ったんだ。「ああ、音楽が成長しきったね」って。そういった意味では、僕たちの音楽は「名なし」になったと言える。音楽がそれ自身から離脱しているのだから。ローニンの音楽は「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」、とりわけ「禅ファンク」呼ばれ続けているけれど、まず音楽が演奏されてからそれらの「名称」が来て、やがてその「名称」が疑問に付されることになる。その逆方向(「名称」→「演奏」)はあり得ない。
『Llyria』のなかに満ちている、静けさと平穏に満ちた雰囲気は、メンバーが音楽を解釈してプレイする、その有りようそのままだ。崇高ともいえるほどの静けさに満ちた自制心から湧き出るもの。心の平安や静寂は音響の只中に置かれる。たとえ、その曲が表面上喧しかったり、リズム的にもメロディ的にも複雑であったとしても。
● アルバム全体を通して、「残響と余韻の存在」がとても色濃い。各モジュールのエンディングの部分がとりわけ個性的で印象に残ります。各モジュールの演奏内容全体を「問いかけ」であるとすれば、そのエンディングの部分(残響ももちろん含めて)は、あなたなりのヒントであったり示唆に当たるのでしょうか?
NB: すべての曲(モジュール)は「問い」であると同時に、考えられ得る限りの「答え」でもある。そう、「ドラマトゥルギー」とでもいうのか、ひとつの「問い」と「答え」との狭間で自ずとバランスが取られる緊迫関係。それでも僕たちは敢えて「プロセス」の周囲を旋回し続けることが多い;まず、「答え」を与え、それから「問い」を提示する。聴き手は「音楽的な課題」とともに家路につく。エネルギーに満ち満ちた課題は、存在と生成のプロセスそのもの。それはコンサートの終了とともに人工的にブツッと截ち切られる類のものではない。
● むしろ、残響や余韻は「明確な答えなどどこにもない」ということの逆説的な答え、であると? モジュールの意味や受容は完全に聴き手に委ねられる、という意味で。
NB: そう、「答え」というのはとても個別で詩的なものだ。だからこそ曲にはタイトルも、経過やエンディングすらもなかったりする。そうやって聴き手を元いた所ではない別の場所へ連れていく。「答え」イコール「問い」なのだろうか?
*「モジュール48」について・・・
● ピアノの「単音の美しさ」が比類ない。響きの孤高性、これは単音のみが達し得るものです。和音であったりテクニック的な超絶技巧は同じ作用は持ち得ない。単音のクオリティというものは、鏡のようなものです。ミュージシャンのすべての経験値が否応なく投影される・・・。単音の強調、そしてそこから発生するところのシンプル極まりないメロディ、これらにどのような意識を持っていますか?
NB: 的確でいいことを言うね。そう、単音には経験が情け容赦なくすべて投射される。単音を鳴らすのは簡単だろう、ってよく人は言うよ。とくにピアノの場合はね。ピアノはとても機械的な楽器だけれども、人はそこにすぐさま「一人のミュージシャンがひとつのサウンドに持ちうるもの」を嗅ぎわける。このサウンドの源は、ミュージシャンの経験だったり、個人的な物事への共振の傾向だったりするわけだけれど。それがベストに作用した場合には、そのサウンドは比類ないほどに個性的なものとなる。優れたミュージシャンというのは、少ない音からより多岐にわたる残響をはじき出せる。多くの音を扱ったとき以上のね。
● 冒頭から、ピアノとリードの「縒られた糸」のごときメロディ・ラインにハッとさせられます。いわゆる「アンサンブル」において、楽器間の「対話」の在り方は大まかに言って二路に分かれるわけですが。音を重ねることによって音楽の複数性や多層性を出すか、音それぞれの差異から分かち難いひとつの「縒られた糸」を編み出すか。一言でいえば、「拡散」か「融合」か。最近のあなたの音楽における気分や傾向はいかがですか?
NB: 音とメロディの「二重張り」、さらにパーカッシヴな音響を加えた複合構成は、ローニンの重要な戦略のひとつ。往々にして、ひとつの楽器は他の楽器の「影」である場合が多いし、二声・三声にわたるパートがひとつの全く新しいサウンドに収斂することもよくある。そこに至っては、もはやそれぞれの楽器の区別はつかなくなる。料理を思い浮かべてほしい。ほとんど魔術的ともいえるくらい美味しい一皿があったとして、そこからたった一つの香辛料を類推することはできない。にもかかわらず、紛れもなく新しい味覚であるような経験。配分と攪拌の芸術。
● ECMのコンテクストでは「沈黙」ですが、「残響」の連続上に在るものとしての「間」。あなたにとってそれはどのような意味を持つのでしょうか?
NB: 人は瞬間に永遠性を持ちこむことができる。「動」を「静」に取り込むことによってね。ある人が明朗に、静かに、分別をもって対話をしているとき、その人は語りのなかに静謐を持ちこんでいる。語りながら沈黙しているんだ。対話の相手が、考えなり思想なりをそこに持ちこむ場所を作ってあげている。多くの人は語りながら沈黙しているのだと思う。「沈黙」はエネルギーが散漫になるところではない。ひとつの「響き」はそれ自体で聴こえ得る一方で、さらに広がっていくための場所をも必要とする。「響き」は「今」のなかに「永遠」を見つけなければならない。
*「モジュール52」について・・・
● このモジュールでは、聴き手はひとつの「禅的実践の爆発」といったものを目の当たりにします。とりわけピアノ・パートにおいて。「単音の美」は言うまでもなく、それぞれの音同士の微かな「ずれ」や「ためらい」、その柔軟な運動性に魅了されます。東洋的な「自己省察」の感覚が喚起されますが。禅の実践における第一段階の「自分との対話」、第二段階ともいえる「他者との出会い(対話)」。このあたり、いかがでしょうか?
NB: 作曲するときは特に意識はしていないけれど、音楽自体のエネルギーが自ずと浸透して来るんだ。音楽のほうが何かを語るためにミュージシャンを選ぶ。音楽は流れゆく偉大なる「神性」みたいなもの。僕たちはそのなかの駒にすぎなく、神性の流れの上にひょっこりと顔を出したり、そのなかに潜伏したりする。
リズム上の、あるいはモティーフ上の「ずれ」や「ためらい」を通して、新たなリズムのバランス感覚を提示する。そして聴き手の知覚をダンスさせるんだ。これが「対話を通じての自己省察」のひとつの形。瞑想とは、一人で物を考えることだけではなくて、大きな全体性の一部として全体性との対話のなかに在ることだ、と捉えている。僕はひとつの独立した断片であるけれど、同時にもっと高次の全体性の一部分でもあるんだ。前作のタイトル『Holon』にも託したかったことだけれど。
「モジュール52」は静かに幕開け、いつしかピアノの単音が活き活きと跳躍し始め、やがて他の楽器を巻き込んで大きなグルーヴへと変遷していく。さながら一滴が雪解け水となり、小さな流れになって、しまいには大海へ注ぎ込む・・。音楽の柔軟性そのもののごとき「旅」のようなもの。聴き手はこの単音の雫に自己を投影し、ミュージシャンはその音世界に深く嵌まり込む・・・
● ここに至っては「自意識の消失」が実現されていると思います。「無我」あるいは主観/客観の「ゼロ地点」。これは「現在性の引き延ばし」でもあり得る?
NB: 水の映像は実に適している。水の変幻自在な様態の在り方にはとても鼓舞される。音楽は大気へ流れ込んで、そこに僕たちは「スウィング」を聴く。水の中にあっては、空気の多様な流れ方を実際に目で見ることができる。僕たちの精神が水と一(いつ)になるならば、「無我」は生じるだろうし、時間感覚と「今」の逆説的な関係を、「絶えず『今』だ!」の状態に蒸留しておくこともできる。
● ビョルン・メイヤーのベースが非常に効果を生んでいるモジュールでもありますが。規則性と驚異的な持久力。まさに「浪人精神」のストイシズムを体現しています。ビョルンがバンド全体のサウンドに寄与しているところとは?
NB: ビョルンのキャラクターはほとんどバンド全体の核であると思っている。極めて経験豊富な、完璧ともいえるミュージシャンだよ。でも、彼はその能力をこれ見よがしに見せつけたり、無駄使いしたりはしない。彼はごく一握りのミュージシャンだけが持ちうるものを持っている。つまり、練りに練られた音楽上の「手仕事」の技、全体性への意識、そして人間的な器の大きさ、のすべてが結晶しているということ。「静かなる精神性」とでも呼びたくなる。大声でがなり立てるだけのやかましい愛とは無縁の人生全体への愛。こういったストイシズムを完膚無きまで血肉化しているのがビョルンだ。
● 一方で理性的ともいえるリズム・セクションのライン、同時発生的に別次元で起こるピアノとリードの「縒り糸」メロディ。これらの氾濫によって、「今」という瞬間はかぎりなく拡散していくのが感じられます。ベース・ラインが「現実」に属するところの何かを体現しているとして、ピアノとサックスの部分はほとんど「無常」というか完全に「非現実」の何ものかです。ここに唐突に突きつけられる、ピアノによる低音の単音F#の威力(ユニゾン”H/C#/C#/C#”の直後)。まるで楔が打ち込まれたかのような、「決断の瞬間」の音、として私には響きます。このパーカッシヴなF#音は、現在にぽっかりと空いた深い亀裂?
NB: まさにそう!「今」というのはとても複雑な状態なんだよ。だからこそ「今」に喰らいつくのはとても難しい。「今」にはすべてが在るが、そのすべては一元的ではない。しばしば音やメロディにとり憑かれて、手首をぎゅっと掴まれては宣告される。「今だぞ、一緒にどうだ」、ってね。待つタイミングや問いかけのタイミングがあるのと同様。音楽が僕たちに語りかけてくる。まあ、自分に都合のいいようにそれらを解釈する幸運も自由も僕たちは持っているけれどね。
● 絶えず「悟り」が更新されるという意味での、禅的実践の音楽への適用、とは?そして、現在が拡大されていくことの実感はどのようなものでしょう?
NB: 人間は訓練しなければならない。すべてを。ピアノも訓練、作曲も訓練、パンを上手に切るのも訓練、ご飯の食べ方も訓練・・・。習得することと訓練すること。それらが僕にとっての絶えず更新されてゆく「悟り」だ。だから月曜日に定期的に集まっているし、一緒に音楽をすることはもちろん、一緒に居ること自体も訓練なんだ。
● またエンディングの話ですが、この「モジュール52」の〆めはとりわけ印象的です。シンバルのヴァイブレーションと水の動き。あらゆる痕跡というものが不確実で、実は夢がフーガみたいなもの?このエンディングもあなたなりのユーモアですか?
NB: ユーモアと皮肉。音楽の魔術は実際に人の手によって作られる。魔法ではない。でも水の音というのはそれ自体が魔術的ではないか?シンバルの音と水の音との間に差はあるのか?このモジュールの小さなポイントではある。
*「モジュール47」
間奏曲のようなメロディアスな「モジュール55」を経てたどり着くのが、アルバムのもう一つのハイライトともいえる「モジュール47」。時間感覚のもつれをそのまま体現するかのような、ピアノ内でのニ声部の掛け合い。「スパイラル」(*「旋回」。ニック・ベルチュが多用する手法)のヴァリエーションのひとつだろうか。少々、意地悪に「運命のいたずら」的にさえ響く・・・
● ここでは絶えず変遷する音楽構造そのものを解放しているような印象を受けますが?
NB: 「スパイラル」の観念はとても美しい。スパイラルは前進しながらも、何回も同じところへ戻ってくる。この曲における多くの音楽的な出来事は、バンド全体から自然発生的に湧き出てきたものなんだ。とくに中間部のフリーの部分はね。ここでのバンドは強風に抗う風景そのもの。
曲の途中で急激な転換があるけれど、人間の攻撃のエネルギーって大概そんなものだろう。黒澤の『乱』での戦闘シーンみたいにね。戦士はやるときはやる。ポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも、人間の攻撃は止むことを知らない。万有の法則のひとつだ。「攻撃」をポジティヴに捉えて、戦闘的エネルギーを定義替えすれば、「リリース」が生じる。合気道でのアクティヴな「気」の存在のようにね。
● 変拍子が顕著なこのモジュール。肉体的な作用以外に、変拍子の本質はどこにあるとお考えですか?
NB: リズム構造の変化によって、異なる時間の受け止め方が示される。時空における「動」は、さまざまな「在り方」を人に許容させる。僕たちは宇宙を踊りながら巡って、いつしか同じ場所へたどり着く。その場所はいろんな意味で完全に同じではあり得ないのだけれど。
● このモジュールでは音とリズムの隙間に強力な「空気」や「風」の存在を感じます。音符以外のところに存する、沈黙の密度や圧力について少々語ってください。
NB: 静謐や静寂、真空、というものは音や音響の対極に位置することもあるけれど、音響そのものの中にもすでに在るものだ。僕たちの音楽は、ダイナミックでリズミカルな音楽を奏でているときでも、その中に静寂と真空を持ち込もうとしている。もし、音・音響・曲そのものに呼吸するための「空気」がなかったら、すぐにナーバスになりエネルギーを削がれてしまう。滋養のある食べ物を与えるように、音楽にエネルギーを与えたい。
水と同様、曲のなかにも風や空気を吹き込むことは可能だ。そうすることによって、すでに作曲された部分も生命を吹き返す。
高密度のさなかの空虚、沈黙のなかのおしゃべり、これらはとてもスリリングだ。
● 「モジュール53」と「モジュール51」は低音の醍醐味に溢れています。わかりやすくいえば、「ダウン・トゥ・アース」でブルージーでファンキーな感覚に襲われる。しかしながら、あなたのグルーヴ感覚は決して特定の文化や場所に根を下ろさない。「土着性」とは自身の中で絶えず変遷し、旋回するものなのでしょうか?
NB: ある風景や国、祖国への個人的な想いというものは、絶えず変化している。僕たちは音楽的なひとつの国、を創ろうとしている。そこでは、自分たち独自の音楽の伝統を打ち立てることができる。あなたが言うように、低音というのはそれを表現するのに好ましいね。濃厚なグルーヴ、ファンキーなリズム、深遠なメロディとベース・ライン。そこから太い「大地との結びつき」が生じる。ここで言う「大地」には地理的な結びつきは微塵もなく、リズムの帝国が価値を持ち祝福される。僕たちが「祖国」を感じるのは、律動するビートの只中だ。
● クラブ「Exile」での定期ライヴ “Montag”も300回を超えたと聞きました。おめでとうございます。各回の「実践の更新」と音楽の強度や濃淡は、実感としてどのようなものですか。また、そこから見えてきた地平とは?
NB: 定期的なギグから、一体どれほどの差異や実践的エネルギーが生まれ出たかを考えると、実に信じられない気分だよ。実践は自らを欺く。人がそれを意識的に進歩させようとすればするほどね。ここにまた、スパイラル型の旋回のエネルギーや発展も見い出せる。前に進むだけじゃなくて互いに散開し合う。スパイラル自体が常に開いているんだ。
一体どこへ向かって?
e-mail インタヴュー 2010/10/7 ドイツ、Ulm(ウルム)よりNik の回答
インタヴュー及び、日独/独日訳 - 伏谷佳代
以下、● が質問、NB がNick Baertschの回答
『Llyria』の第一印象は一見とても平穏で、禅における「悟り」の境地に近いものに感じられました。前作の『Holon』の魅力が音楽構造そのものの「緊迫と凪とのダイナミズム」にあったのと比較してですが・・・
● しかし、次第にそれはただの表面的な印象にすぎない、と思われてきました。むしろ、「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」自体としては、より強度を増しているのではないか。「実践の開示」そのもの、という点で(コンセプト、としての 「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」は立ち消え、ただの「実践」が全面に出ているという意味ですが)?
NB: 僕の家には日本人ダンサーの平敷秀人が住んでいるんだけれど、『Llyria』を聴いて彼が言ったんだ。「ああ、音楽が成長しきったね」って。そういった意味では、僕たちの音楽は「名なし」になったと言える。音楽がそれ自身から離脱しているのだから。ローニンの音楽は「リチュアル・グルーヴ・ミュージック」、とりわけ「禅ファンク」呼ばれ続けているけれど、まず音楽が演奏されてからそれらの「名称」が来て、やがてその「名称」が疑問に付されることになる。その逆方向(「名称」→「演奏」)はあり得ない。
『Llyria』のなかに満ちている、静けさと平穏に満ちた雰囲気は、メンバーが音楽を解釈してプレイする、その有りようそのままだ。崇高ともいえるほどの静けさに満ちた自制心から湧き出るもの。心の平安や静寂は音響の只中に置かれる。たとえ、その曲が表面上喧しかったり、リズム的にもメロディ的にも複雑であったとしても。
● アルバム全体を通して、「残響と余韻の存在」がとても色濃い。各モジュールのエンディングの部分がとりわけ個性的で印象に残ります。各モジュールの演奏内容全体を「問いかけ」であるとすれば、そのエンディングの部分(残響ももちろん含めて)は、あなたなりのヒントであったり示唆に当たるのでしょうか?
NB: すべての曲(モジュール)は「問い」であると同時に、考えられ得る限りの「答え」でもある。そう、「ドラマトゥルギー」とでもいうのか、ひとつの「問い」と「答え」との狭間で自ずとバランスが取られる緊迫関係。それでも僕たちは敢えて「プロセス」の周囲を旋回し続けることが多い;まず、「答え」を与え、それから「問い」を提示する。聴き手は「音楽的な課題」とともに家路につく。エネルギーに満ち満ちた課題は、存在と生成のプロセスそのもの。それはコンサートの終了とともに人工的にブツッと截ち切られる類のものではない。
● むしろ、残響や余韻は「明確な答えなどどこにもない」ということの逆説的な答え、であると? モジュールの意味や受容は完全に聴き手に委ねられる、という意味で。
NB: そう、「答え」というのはとても個別で詩的なものだ。だからこそ曲にはタイトルも、経過やエンディングすらもなかったりする。そうやって聴き手を元いた所ではない別の場所へ連れていく。「答え」イコール「問い」なのだろうか?
*「モジュール48」について・・・
● ピアノの「単音の美しさ」が比類ない。響きの孤高性、これは単音のみが達し得るものです。和音であったりテクニック的な超絶技巧は同じ作用は持ち得ない。単音のクオリティというものは、鏡のようなものです。ミュージシャンのすべての経験値が否応なく投影される・・・。単音の強調、そしてそこから発生するところのシンプル極まりないメロディ、これらにどのような意識を持っていますか?
NB: 的確でいいことを言うね。そう、単音には経験が情け容赦なくすべて投射される。単音を鳴らすのは簡単だろう、ってよく人は言うよ。とくにピアノの場合はね。ピアノはとても機械的な楽器だけれども、人はそこにすぐさま「一人のミュージシャンがひとつのサウンドに持ちうるもの」を嗅ぎわける。このサウンドの源は、ミュージシャンの経験だったり、個人的な物事への共振の傾向だったりするわけだけれど。それがベストに作用した場合には、そのサウンドは比類ないほどに個性的なものとなる。優れたミュージシャンというのは、少ない音からより多岐にわたる残響をはじき出せる。多くの音を扱ったとき以上のね。
● 冒頭から、ピアノとリードの「縒られた糸」のごときメロディ・ラインにハッとさせられます。いわゆる「アンサンブル」において、楽器間の「対話」の在り方は大まかに言って二路に分かれるわけですが。音を重ねることによって音楽の複数性や多層性を出すか、音それぞれの差異から分かち難いひとつの「縒られた糸」を編み出すか。一言でいえば、「拡散」か「融合」か。最近のあなたの音楽における気分や傾向はいかがですか?
NB: 音とメロディの「二重張り」、さらにパーカッシヴな音響を加えた複合構成は、ローニンの重要な戦略のひとつ。往々にして、ひとつの楽器は他の楽器の「影」である場合が多いし、二声・三声にわたるパートがひとつの全く新しいサウンドに収斂することもよくある。そこに至っては、もはやそれぞれの楽器の区別はつかなくなる。料理を思い浮かべてほしい。ほとんど魔術的ともいえるくらい美味しい一皿があったとして、そこからたった一つの香辛料を類推することはできない。にもかかわらず、紛れもなく新しい味覚であるような経験。配分と攪拌の芸術。
● ECMのコンテクストでは「沈黙」ですが、「残響」の連続上に在るものとしての「間」。あなたにとってそれはどのような意味を持つのでしょうか?
NB: 人は瞬間に永遠性を持ちこむことができる。「動」を「静」に取り込むことによってね。ある人が明朗に、静かに、分別をもって対話をしているとき、その人は語りのなかに静謐を持ちこんでいる。語りながら沈黙しているんだ。対話の相手が、考えなり思想なりをそこに持ちこむ場所を作ってあげている。多くの人は語りながら沈黙しているのだと思う。「沈黙」はエネルギーが散漫になるところではない。ひとつの「響き」はそれ自体で聴こえ得る一方で、さらに広がっていくための場所をも必要とする。「響き」は「今」のなかに「永遠」を見つけなければならない。
*「モジュール52」について・・・
● このモジュールでは、聴き手はひとつの「禅的実践の爆発」といったものを目の当たりにします。とりわけピアノ・パートにおいて。「単音の美」は言うまでもなく、それぞれの音同士の微かな「ずれ」や「ためらい」、その柔軟な運動性に魅了されます。東洋的な「自己省察」の感覚が喚起されますが。禅の実践における第一段階の「自分との対話」、第二段階ともいえる「他者との出会い(対話)」。このあたり、いかがでしょうか?
NB: 作曲するときは特に意識はしていないけれど、音楽自体のエネルギーが自ずと浸透して来るんだ。音楽のほうが何かを語るためにミュージシャンを選ぶ。音楽は流れゆく偉大なる「神性」みたいなもの。僕たちはそのなかの駒にすぎなく、神性の流れの上にひょっこりと顔を出したり、そのなかに潜伏したりする。
リズム上の、あるいはモティーフ上の「ずれ」や「ためらい」を通して、新たなリズムのバランス感覚を提示する。そして聴き手の知覚をダンスさせるんだ。これが「対話を通じての自己省察」のひとつの形。瞑想とは、一人で物を考えることだけではなくて、大きな全体性の一部として全体性との対話のなかに在ることだ、と捉えている。僕はひとつの独立した断片であるけれど、同時にもっと高次の全体性の一部分でもあるんだ。前作のタイトル『Holon』にも託したかったことだけれど。
「モジュール52」は静かに幕開け、いつしかピアノの単音が活き活きと跳躍し始め、やがて他の楽器を巻き込んで大きなグルーヴへと変遷していく。さながら一滴が雪解け水となり、小さな流れになって、しまいには大海へ注ぎ込む・・。音楽の柔軟性そのもののごとき「旅」のようなもの。聴き手はこの単音の雫に自己を投影し、ミュージシャンはその音世界に深く嵌まり込む・・・
● ここに至っては「自意識の消失」が実現されていると思います。「無我」あるいは主観/客観の「ゼロ地点」。これは「現在性の引き延ばし」でもあり得る?
NB: 水の映像は実に適している。水の変幻自在な様態の在り方にはとても鼓舞される。音楽は大気へ流れ込んで、そこに僕たちは「スウィング」を聴く。水の中にあっては、空気の多様な流れ方を実際に目で見ることができる。僕たちの精神が水と一(いつ)になるならば、「無我」は生じるだろうし、時間感覚と「今」の逆説的な関係を、「絶えず『今』だ!」の状態に蒸留しておくこともできる。
● ビョルン・メイヤーのベースが非常に効果を生んでいるモジュールでもありますが。規則性と驚異的な持久力。まさに「浪人精神」のストイシズムを体現しています。ビョルンがバンド全体のサウンドに寄与しているところとは?
NB: ビョルンのキャラクターはほとんどバンド全体の核であると思っている。極めて経験豊富な、完璧ともいえるミュージシャンだよ。でも、彼はその能力をこれ見よがしに見せつけたり、無駄使いしたりはしない。彼はごく一握りのミュージシャンだけが持ちうるものを持っている。つまり、練りに練られた音楽上の「手仕事」の技、全体性への意識、そして人間的な器の大きさ、のすべてが結晶しているということ。「静かなる精神性」とでも呼びたくなる。大声でがなり立てるだけのやかましい愛とは無縁の人生全体への愛。こういったストイシズムを完膚無きまで血肉化しているのがビョルンだ。
● 一方で理性的ともいえるリズム・セクションのライン、同時発生的に別次元で起こるピアノとリードの「縒り糸」メロディ。これらの氾濫によって、「今」という瞬間はかぎりなく拡散していくのが感じられます。ベース・ラインが「現実」に属するところの何かを体現しているとして、ピアノとサックスの部分はほとんど「無常」というか完全に「非現実」の何ものかです。ここに唐突に突きつけられる、ピアノによる低音の単音F#の威力(ユニゾン”H/C#/C#/C#”の直後)。まるで楔が打ち込まれたかのような、「決断の瞬間」の音、として私には響きます。このパーカッシヴなF#音は、現在にぽっかりと空いた深い亀裂?
NB: まさにそう!「今」というのはとても複雑な状態なんだよ。だからこそ「今」に喰らいつくのはとても難しい。「今」にはすべてが在るが、そのすべては一元的ではない。しばしば音やメロディにとり憑かれて、手首をぎゅっと掴まれては宣告される。「今だぞ、一緒にどうだ」、ってね。待つタイミングや問いかけのタイミングがあるのと同様。音楽が僕たちに語りかけてくる。まあ、自分に都合のいいようにそれらを解釈する幸運も自由も僕たちは持っているけれどね。
● 絶えず「悟り」が更新されるという意味での、禅的実践の音楽への適用、とは?そして、現在が拡大されていくことの実感はどのようなものでしょう?
NB: 人間は訓練しなければならない。すべてを。ピアノも訓練、作曲も訓練、パンを上手に切るのも訓練、ご飯の食べ方も訓練・・・。習得することと訓練すること。それらが僕にとっての絶えず更新されてゆく「悟り」だ。だから月曜日に定期的に集まっているし、一緒に音楽をすることはもちろん、一緒に居ること自体も訓練なんだ。
● またエンディングの話ですが、この「モジュール52」の〆めはとりわけ印象的です。シンバルのヴァイブレーションと水の動き。あらゆる痕跡というものが不確実で、実は夢がフーガみたいなもの?このエンディングもあなたなりのユーモアですか?
NB: ユーモアと皮肉。音楽の魔術は実際に人の手によって作られる。魔法ではない。でも水の音というのはそれ自体が魔術的ではないか?シンバルの音と水の音との間に差はあるのか?このモジュールの小さなポイントではある。
*「モジュール47」
間奏曲のようなメロディアスな「モジュール55」を経てたどり着くのが、アルバムのもう一つのハイライトともいえる「モジュール47」。時間感覚のもつれをそのまま体現するかのような、ピアノ内でのニ声部の掛け合い。「スパイラル」(*「旋回」。ニック・ベルチュが多用する手法)のヴァリエーションのひとつだろうか。少々、意地悪に「運命のいたずら」的にさえ響く・・・
● ここでは絶えず変遷する音楽構造そのものを解放しているような印象を受けますが?
NB: 「スパイラル」の観念はとても美しい。スパイラルは前進しながらも、何回も同じところへ戻ってくる。この曲における多くの音楽的な出来事は、バンド全体から自然発生的に湧き出てきたものなんだ。とくに中間部のフリーの部分はね。ここでのバンドは強風に抗う風景そのもの。
曲の途中で急激な転換があるけれど、人間の攻撃のエネルギーって大概そんなものだろう。黒澤の『乱』での戦闘シーンみたいにね。戦士はやるときはやる。ポジティヴな意味でもネガティヴな意味でも、人間の攻撃は止むことを知らない。万有の法則のひとつだ。「攻撃」をポジティヴに捉えて、戦闘的エネルギーを定義替えすれば、「リリース」が生じる。合気道でのアクティヴな「気」の存在のようにね。
● 変拍子が顕著なこのモジュール。肉体的な作用以外に、変拍子の本質はどこにあるとお考えですか?
NB: リズム構造の変化によって、異なる時間の受け止め方が示される。時空における「動」は、さまざまな「在り方」を人に許容させる。僕たちは宇宙を踊りながら巡って、いつしか同じ場所へたどり着く。その場所はいろんな意味で完全に同じではあり得ないのだけれど。
● このモジュールでは音とリズムの隙間に強力な「空気」や「風」の存在を感じます。音符以外のところに存する、沈黙の密度や圧力について少々語ってください。
NB: 静謐や静寂、真空、というものは音や音響の対極に位置することもあるけれど、音響そのものの中にもすでに在るものだ。僕たちの音楽は、ダイナミックでリズミカルな音楽を奏でているときでも、その中に静寂と真空を持ち込もうとしている。もし、音・音響・曲そのものに呼吸するための「空気」がなかったら、すぐにナーバスになりエネルギーを削がれてしまう。滋養のある食べ物を与えるように、音楽にエネルギーを与えたい。
水と同様、曲のなかにも風や空気を吹き込むことは可能だ。そうすることによって、すでに作曲された部分も生命を吹き返す。
高密度のさなかの空虚、沈黙のなかのおしゃべり、これらはとてもスリリングだ。
● 「モジュール53」と「モジュール51」は低音の醍醐味に溢れています。わかりやすくいえば、「ダウン・トゥ・アース」でブルージーでファンキーな感覚に襲われる。しかしながら、あなたのグルーヴ感覚は決して特定の文化や場所に根を下ろさない。「土着性」とは自身の中で絶えず変遷し、旋回するものなのでしょうか?
NB: ある風景や国、祖国への個人的な想いというものは、絶えず変化している。僕たちは音楽的なひとつの国、を創ろうとしている。そこでは、自分たち独自の音楽の伝統を打ち立てることができる。あなたが言うように、低音というのはそれを表現するのに好ましいね。濃厚なグルーヴ、ファンキーなリズム、深遠なメロディとベース・ライン。そこから太い「大地との結びつき」が生じる。ここで言う「大地」には地理的な結びつきは微塵もなく、リズムの帝国が価値を持ち祝福される。僕たちが「祖国」を感じるのは、律動するビートの只中だ。
● クラブ「Exile」での定期ライヴ “Montag”も300回を超えたと聞きました。おめでとうございます。各回の「実践の更新」と音楽の強度や濃淡は、実感としてどのようなものですか。また、そこから見えてきた地平とは?
NB: 定期的なギグから、一体どれほどの差異や実践的エネルギーが生まれ出たかを考えると、実に信じられない気分だよ。実践は自らを欺く。人がそれを意識的に進歩させようとすればするほどね。ここにまた、スパイラル型の旋回のエネルギーや発展も見い出せる。前に進むだけじゃなくて互いに散開し合う。スパイラル自体が常に開いているんだ。
一体どこへ向かって?
by invs
| 2010-10-10 10:31
| Nik Baertsch's Ronin