2008年 04月 27日
Nik Baertsch (ニック・ベルチュ) と Imre Thormann (イムレ・トルマン)日本公演初日 |
昨夜のNik Baertsch (ニック・ベルチュ) と Imre Thormann (イムレ・トルマン)日本公演は盛況だった。Nik とImre の素晴らしさを既にご存知の方も、これまでほとんど知らなかったという方も、ともに熱心にパーフォーマンスをご覧になっていた。
公演はNik のピアノ・ソロで始まった。ステージ中央手前にグランド・ピアノが置かれている。濃い青色の照明の中、Nikの演奏が始まった。独特のフレージングが繰り返される中、ピアノの弦を左手で押さえながら右手で鍵盤を叩いたり、弦を強くはじくと一気に Nik の世界が現れる。Nikの場合、反復は単調ではない。というのも、そこには人間がフィジカルに鍵盤を叩くときの微妙なニュアンスや間合いなど、アナログでしか成し得ない極めて微妙な不統一要素が含まれているからだ。デジタル楽器によって自動生成される反復とはまったく異なる。そして、Nik の反復は繰り返されるうちに、別の音やリズムの要素を新たに加えながら、ある意味アメーバ的に存在領域を変えていく。すると、時間の経過とともに、新たな風景が自然と呼び込まれ、聴く者に不思議な「シフト感」が生じることになる。但し、微妙な不統一要素なり、細かな要素の変化に対する注意を怠れば、聴く者はたちまちのうちに「振り落とされる」危険がある。ピアノを弾くNikに要求される技術と精神は相当高度でタフだが、同時に聴衆に要求される注意度(アテンション)も並大抵ではない。隣り合った人と二言、三言囁き合ったらそれで終わりだ。 第二部はステージ左奥のピアノと中央に置かれたダークな色の上着で始まった。会場はまっくら闇だ。席後方よりImre が上半身白塗の姿で少しづつ歩み出てくる。すると客席中央のライトが照らされ、Imreの登場となる。とてもゆっくりした動きの中に緊張が漲っている。悲しみや喜び、失望や希望、躁と鬱などがImreの身体を使って湧き上がる。動きの一瞬一瞬にストーリーが見出されるようだ。ただ、脈絡があるのかないのか、それ自体は見るものに委ねられている。肉体の圧倒的な訓練を経なければ、あのようなImreの身体が発するメッセージ性は達成できまい。そして、目・顔・手・胸・腹・背・腰・脚・指などのあらゆる部位を駆使し、それらを総合的にImreの内面へと誘導することにより、ステージ上には何人もの人格、奇妙な人々が「存在」することとなる。実際、自分の目を何度か疑った。あれは Imreではないと思う。Imre はいるのにいないのだ。天才という言葉をたやすく使うことは厳に慎んでいるが、慎みを失ってもいいように思わせるほどImreのパーフォーマンスは素晴らしい。 Nik と Imre の存在感は際立っていた。
公演には 駐日スイス大使、駐日ルクセンブルグ大使もお見えになり、大変素晴らしかったとの賛辞をいただいた。ささやかながら、文化交流に貢献できたことを嬉しく思う。
photo: 前沢春美
公演はNik のピアノ・ソロで始まった。ステージ中央手前にグランド・ピアノが置かれている。濃い青色の照明の中、Nikの演奏が始まった。独特のフレージングが繰り返される中、ピアノの弦を左手で押さえながら右手で鍵盤を叩いたり、弦を強くはじくと一気に Nik の世界が現れる。Nikの場合、反復は単調ではない。というのも、そこには人間がフィジカルに鍵盤を叩くときの微妙なニュアンスや間合いなど、アナログでしか成し得ない極めて微妙な不統一要素が含まれているからだ。デジタル楽器によって自動生成される反復とはまったく異なる。そして、Nik の反復は繰り返されるうちに、別の音やリズムの要素を新たに加えながら、ある意味アメーバ的に存在領域を変えていく。すると、時間の経過とともに、新たな風景が自然と呼び込まれ、聴く者に不思議な「シフト感」が生じることになる。但し、微妙な不統一要素なり、細かな要素の変化に対する注意を怠れば、聴く者はたちまちのうちに「振り落とされる」危険がある。ピアノを弾くNikに要求される技術と精神は相当高度でタフだが、同時に聴衆に要求される注意度(アテンション)も並大抵ではない。隣り合った人と二言、三言囁き合ったらそれで終わりだ。
公演には 駐日スイス大使、駐日ルクセンブルグ大使もお見えになり、大変素晴らしかったとの賛辞をいただいた。ささやかながら、文化交流に貢献できたことを嬉しく思う。
photo: 前沢春美
by invs
| 2008-04-27 12:39
| Nik Baertsch's Ronin