2009年 10月 13日
Johnny La Marama - Pit Inn 公演 |
Johnny La Marama (ジョニー・ラ・マラマ)日本公演が 10/10-11の二日間に亘って東京新宿の Pit Inn で行われた。
10/10 公演 photo: 前沢春美
とてもインテリジェントかつ勇気ある演奏だった。あらゆるジャンルを超えようとする試みは、アーティストにとって、とても危険な行為だ。マスコミを総動員したメインストリームの音楽ビジネスによって、一般の音楽好きは、本人が意識しているかどうかに関わらず、既にかなりの程度「洗脳」されている。それぞれ、「好きなジャンル」や「好きなアーティスト」が予め決まっている人に対して、Johnny La Maramaはそれに挑戦するかの如く、彼らの頭の中のフレームワークを「はずしに」かかる。従って、ライヴでほとんどの人が期待する「ノリ」を意図して「消し」、ノレないようにしてしまう。例えば、ロック的なリズムが少し続いたかと思うと、突然ジャズの典型が現れるが、それも数秒内に現代音楽へと展開し、最後は聴衆を煙に巻くように「盛り上がらない」演奏で終結する。聴くものを敢えて裏切っていくのは、音楽で食っているバンドにとってはとても危険な行為だ。それをやってしまうところに、Johnny La Maramaの凄さがある。
もちろん、ただの「裏切り」だけで終始しているのではない。そこかしこにユーモアが散りばめられていて、「裏切られた」リスナーを救っていく。また、それは演奏者が自らの危険行為をなだめているかのようにも見える。聴衆には笑いの要素を提供すると同時に、自らの緊張も解けるだろう。ここには、メタ的要素がある。Pit Inn でのリスナーは、10日も11日もインテリジェントであったため、バンドの裏切りに妙味を見出し、ジャンル分けの不毛さを身を持って体現していく彼らに拍手を送ったが、公演の場所や来場者如何によっては、不人気を極めることもあるだろう。実際、ドイツにおいても、普通の「フリー・ジャズ」の愛好家からはJohnny La Maramaは「フリー・ジャズからの逸脱」を非難されているという。本来、フリーなはずなのに、そこに「逸脱」があるというのが皮肉だ。「フリー・ジャズ」もジャンルになってしまっているということの証になる。それは、本来言葉で表せない音楽を言葉で表そうとする限界でもある。どのような音楽かを、知らない人に説明するのに言葉や文字を使えば、自動的にジャンル分けの問題が発生してくるのだ。
音楽は音楽であって、言葉や文字では表現できない。そこの断絶を、演奏という形で提示しているのがJohnny La Maramaだ。彼らは、言葉や文字によって「音楽の魂」が吸い取られてしまっている現代の音楽環境に強い懸念を抱いている。それは、自らが捨石となって、その状況に警鐘を与えようとしている、とも読める。
日本ではまったく無名といっていいJohnny La Maramaだが、その存在によって、これだけ考えさせられる。ホンモノには、普遍性がある。音楽の最前線を開拓している彼らには、これからも毎年のように日本へ来て貰いたい。
10/11 公演 photo: 前沢春美

とてもインテリジェントかつ勇気ある演奏だった。あらゆるジャンルを超えようとする試みは、アーティストにとって、とても危険な行為だ。マスコミを総動員したメインストリームの音楽ビジネスによって、一般の音楽好きは、本人が意識しているかどうかに関わらず、既にかなりの程度「洗脳」されている。それぞれ、「好きなジャンル」や「好きなアーティスト」が予め決まっている人に対して、Johnny La Maramaはそれに挑戦するかの如く、彼らの頭の中のフレームワークを「はずしに」かかる。従って、ライヴでほとんどの人が期待する「ノリ」を意図して「消し」、ノレないようにしてしまう。例えば、ロック的なリズムが少し続いたかと思うと、突然ジャズの典型が現れるが、それも数秒内に現代音楽へと展開し、最後は聴衆を煙に巻くように「盛り上がらない」演奏で終結する。聴くものを敢えて裏切っていくのは、音楽で食っているバンドにとってはとても危険な行為だ。それをやってしまうところに、Johnny La Maramaの凄さがある。
もちろん、ただの「裏切り」だけで終始しているのではない。そこかしこにユーモアが散りばめられていて、「裏切られた」リスナーを救っていく。また、それは演奏者が自らの危険行為をなだめているかのようにも見える。聴衆には笑いの要素を提供すると同時に、自らの緊張も解けるだろう。ここには、メタ的要素がある。Pit Inn でのリスナーは、10日も11日もインテリジェントであったため、バンドの裏切りに妙味を見出し、ジャンル分けの不毛さを身を持って体現していく彼らに拍手を送ったが、公演の場所や来場者如何によっては、不人気を極めることもあるだろう。実際、ドイツにおいても、普通の「フリー・ジャズ」の愛好家からはJohnny La Maramaは「フリー・ジャズからの逸脱」を非難されているという。本来、フリーなはずなのに、そこに「逸脱」があるというのが皮肉だ。「フリー・ジャズ」もジャンルになってしまっているということの証になる。それは、本来言葉で表せない音楽を言葉で表そうとする限界でもある。どのような音楽かを、知らない人に説明するのに言葉や文字を使えば、自動的にジャンル分けの問題が発生してくるのだ。
音楽は音楽であって、言葉や文字では表現できない。そこの断絶を、演奏という形で提示しているのがJohnny La Maramaだ。彼らは、言葉や文字によって「音楽の魂」が吸い取られてしまっている現代の音楽環境に強い懸念を抱いている。それは、自らが捨石となって、その状況に警鐘を与えようとしている、とも読める。
日本ではまったく無名といっていいJohnny La Maramaだが、その存在によって、これだけ考えさせられる。ホンモノには、普遍性がある。音楽の最前線を開拓している彼らには、これからも毎年のように日本へ来て貰いたい。

by invs
| 2009-10-13 11:34
| Johnny La Marama

