2009年 10月 26日
Terje Isungset (テリエ・イースングセット) + Unni Loevlid (ウニ・ローヴリー) - 東京公演 |
Terje Isungset (テリエ・イースングセット) + Unni Loevlid (ウニ・ローヴリー)の東京公演は昨日、東京青山の「月見ル君想フ」にて開催された。三部構成のステージでは、巻上公一と中村仁美も参加、パーカッション、ヴォイス、テルミン、篳篥、口琴の他、手製の楽器(石、木材、山羊の角など)などを縦横無尽に駆使した多彩なコンサートとなった。
photo:前沢春美
即興を主体に、一部にはウニの(準備された)歌唱も混ぜて、2時間半以上に及ぶ公演だった。テリエとウニの演奏を見ていると、彼らがノルウェーの自然の中で育ったことがよくわかる。人に「見せよう、聴かせよう」という意識が限りなく失せていて、ただただ自然に「自然からのメッセージ」を、自らを媒体として、自分の技術(パーカッションや歌)を使って伝えている。ここでは「自然」がダブルに効いてくる。まず、生まれ故郷で体得した「自然からのメッセージ」がある。そして、それをできるだけノイズを加えないでデリヴァーする。メッセージが「人間」としてのテリエとウニを通じて聴こえてくるのだが、人間にありがちな、自己主張に満ちた「演出」が抑えられている。純粋な媒体と化したミュージシャンにまさるものはない。彼らは実際にそこに見えるのだが、こちらの頭に浮かんでくるのは自然のイメージだ。
この特異な状態を可能にしている、テリエとウニの「在り方」について、一つ例を挙げてみよう。最も感じたのは、時間の無意識化だった。テリエの刻むビートは、並列的に奏でられる雷鳴や嵐、或いは木々の擦れの音の中にあって、極めて複雑な形をとる。言い換えれば、8分の8、16分の16、或いは4分の4 といった、小節ではっきりと区切られるビート感覚から最も遠いところにある。連続し、或いは錯綜する一見無秩序に聞こえる音の群れは、明らかに自然を思わせる。ウニの歌も、特にアカペラで歌われた時には、予め決まったデジタル的な時間軸の上は動かず、遥か遠くに見渡す水平線や山々のうねりを描き出している。歌っている彼女の目は悠久の「時を計る術がなかった」時代をそのまま見つめているようだった。



photos:前沢春美
ミュージシャンにとってインプロヴィゼーションは危険な行為だ。自らの限界をあからさまにしてしまう。しかし、同時に無限の可能性を呼ぶ方法でもある。そこにかけるかかけないか。無限の可能性の究極の姿が自然だとすれば、テリエとウニの「在り方」はまさにそこにこそ意味を見つけることだろう。


photos:前沢春美
テリエと巻上/中村の共演は、今回で三回目になるが、即興の妙味を存分に味あわせてくれた。ヴォイス、テルミンや篳篥の普通の枠を取り払い、テリエがバックグラウンドに刻一刻と提示していく自然観にのって、予測不能な、実にダイナミックな演奏となった。渾然としたインプロヴィゼーションの中で一瞬、何故か「インプロ雅楽」というフレーズが浮かんだが、後で考えてみれば、雅楽もビート感覚から遠いところにあるアナログ「合奏」だ。
近年、スタジオ録音でのデジタル編集が当たり前になり、ミュージシャンの主体性がどんどん薄くなっている。ステージ上でも、デジタル的コントロールは頻繁に起きている。すべてデジタルが悪いわけではない。しかし、音楽は、原作者のものだ。もっとはっきりと、ミュージシャンに戻す必要がある。
「自然」の音楽とインプロヴィゼーション、雅楽と「インプロ雅楽」、こういう公演を体験すると、音楽の本質について深く考えざるを得ない。一つだけ確実なことがある。アナログの逆襲はここでも進行している。




photos:前沢春美

即興を主体に、一部にはウニの(準備された)歌唱も混ぜて、2時間半以上に及ぶ公演だった。テリエとウニの演奏を見ていると、彼らがノルウェーの自然の中で育ったことがよくわかる。人に「見せよう、聴かせよう」という意識が限りなく失せていて、ただただ自然に「自然からのメッセージ」を、自らを媒体として、自分の技術(パーカッションや歌)を使って伝えている。ここでは「自然」がダブルに効いてくる。まず、生まれ故郷で体得した「自然からのメッセージ」がある。そして、それをできるだけノイズを加えないでデリヴァーする。メッセージが「人間」としてのテリエとウニを通じて聴こえてくるのだが、人間にありがちな、自己主張に満ちた「演出」が抑えられている。純粋な媒体と化したミュージシャンにまさるものはない。彼らは実際にそこに見えるのだが、こちらの頭に浮かんでくるのは自然のイメージだ。
この特異な状態を可能にしている、テリエとウニの「在り方」について、一つ例を挙げてみよう。最も感じたのは、時間の無意識化だった。テリエの刻むビートは、並列的に奏でられる雷鳴や嵐、或いは木々の擦れの音の中にあって、極めて複雑な形をとる。言い換えれば、8分の8、16分の16、或いは4分の4 といった、小節ではっきりと区切られるビート感覚から最も遠いところにある。連続し、或いは錯綜する一見無秩序に聞こえる音の群れは、明らかに自然を思わせる。ウニの歌も、特にアカペラで歌われた時には、予め決まったデジタル的な時間軸の上は動かず、遥か遠くに見渡す水平線や山々のうねりを描き出している。歌っている彼女の目は悠久の「時を計る術がなかった」時代をそのまま見つめているようだった。




ミュージシャンにとってインプロヴィゼーションは危険な行為だ。自らの限界をあからさまにしてしまう。しかし、同時に無限の可能性を呼ぶ方法でもある。そこにかけるかかけないか。無限の可能性の究極の姿が自然だとすれば、テリエとウニの「在り方」はまさにそこにこそ意味を見つけることだろう。



テリエと巻上/中村の共演は、今回で三回目になるが、即興の妙味を存分に味あわせてくれた。ヴォイス、テルミンや篳篥の普通の枠を取り払い、テリエがバックグラウンドに刻一刻と提示していく自然観にのって、予測不能な、実にダイナミックな演奏となった。渾然としたインプロヴィゼーションの中で一瞬、何故か「インプロ雅楽」というフレーズが浮かんだが、後で考えてみれば、雅楽もビート感覚から遠いところにあるアナログ「合奏」だ。
近年、スタジオ録音でのデジタル編集が当たり前になり、ミュージシャンの主体性がどんどん薄くなっている。ステージ上でも、デジタル的コントロールは頻繁に起きている。すべてデジタルが悪いわけではない。しかし、音楽は、原作者のものだ。もっとはっきりと、ミュージシャンに戻す必要がある。
「自然」の音楽とインプロヴィゼーション、雅楽と「インプロ雅楽」、こういう公演を体験すると、音楽の本質について深く考えざるを得ない。一つだけ確実なことがある。アナログの逆襲はここでも進行している。





by invs
| 2009-10-26 19:49
| Terje Isungset

