2010年 11月 28日
Twitter での過去のtweet がシステムの不具合によりうまく見られないので、8月にスタートした時点からの投稿で、音、音楽、思考などに関するもののみこちらに転載する。
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洋の東西を問わず、書物は13-15世紀まですべて音読されていたという。それが黙読となったのは活版印刷が登場してかららしい。コピー機などなく手で書き写せざるを得なかった時代は、声に出しながら書いていたのだ。「黙って静かに読む」ことが「できない」時代の人の頭はどうなっていたのか。
2010.11.28
「先」は尖っていることが多い。「端」は落っこちるかもしれない。「先端」はあぶない。でも、その先に何があるか、先端に行かねばわからない。痛い目にあうからといって怖気づいてはいけない。真のフロンティアはそこにこそ開かれる。
2010.11.19
自然音と社会音(人工音)は大きく違う。森の小鳥のさえずりは気持ちがいいが、駅構内の録音された偽さえずりには辟易する。聴いている本人の気分にもよるが、一般に風雨雷鳴など自然音は邪魔ではないが、機械騒音などの社会音は制御したい。それでは音楽はどうか。声も含めて制御された人工音だが。
2010.11.15
アフリカのピグミー族に偶然森の中で出会った人に聞いた話。数人が歌を歌うと、他の人たちがそれに合わせてとてもきれいな和音を構成するポリフォニーを歌った。ごく自然に和音を出す感じ。非常に背の高い木々に囲まれた場所で歌が響いていた。
2010.11.14
意味のある一生を送ろうと思えば、公私ともにやることはいくらでもある。だが、自分の時間は永遠には続かない。すぐか後かはわらないが、人は必ず死ぬ。よって何を他にさきがけてやるかが重要になる。その順番はどこにも書かれていない。刻一刻と進む時間と状況の中、自ら決めていかねばならないのだ。
2010.11.3
台風は枕草子、源氏物語の頃は「野分(のわき、のわけ)」。沖縄ではカジフチやテーフーとも呼ばれるらしい。欧米ではハリケーン、タイフーン、インドではサイクロン、フィリピンではバギョか。逆に「ジャズ」は世界中で頻繁に使われるが、中身が地域・使用する人によってかなり異なる。共通定義なし。
2010.10.31
ハロウィーンの起源はケルト人にあるという。10/31がケルトの1年の最後の日で、この夜に死者霊、精霊、魔女が出てくるのを仮面をかぶって身を守り、火を焚いて魔よけとしたらしい。それがまわりまわって日本のビジネスと結びついた。ヴァレンタインもそうだが、信仰と商業は古来結びつきやすい。
2010.10.21
Nik Baertsch はスイス・ドイツ語圏出身だから犬はヴァウヴァウと鳴く。でも同じスイスでも少し移動すれば、犬は別の鳴き方をする。フランス語、イタリア語、レート・ロマンシュ語も「国語」だ。スイス人は多国語を操る人が多いから、犬の鳴き方も四つや五つは覚えているだろう。
2010.10.11
言葉は危うい。ジャズと言えば、ある人は黒人トランペッターが咆哮する図を思い、ある人は見目麗しい女性がしとやかに歌う図を想像する。またある人はジャンルをまったく超えた「ナンだかわからないが凄い」フリーなインプロビゼーションをも思う。どれも正しいが、どれも誤り。真実は言葉に宿らず。
2010.10.10
近くの神社で大祭があるというので、その宣伝の車が録音された祭囃子を流しながら走っている。でも何かおかしい。囃子が日本でない。特に太鼓の叩き方だ。クラブ・ビートのように拍が頭にあり、かつ正確すぎるくらいにその「頭の頭」にビートが来ている。本来の囃子では太鼓はもっと「抜けている」。
2010.9.18
分類と統合はいつでも、どこでも大事。分類せずに理解は深まらないが、分類にとどめて統合せずば本旨を逃す。統合された最終形のみを求めては、そのよって立つあり方やプロセスを理解せず。真理は分類と統合の一極にはあらず、常に揺れ続ける運動の中にひょっこり顔を覗かせる。その瞬間を捉えるが真。
2010.9.13
音楽について「エンタテインメント」と「芸術」という二大分類ができると仮定する。「芸術」音楽を聴いて楽しくなったらそれは「エンタテインメント」なのか。逆に、いわゆる「エンタテインメント」音楽を聴いて、芸術的感慨を持ったら、それは「芸術」か。こういう仮定が間違いか。或いは定義問題か。
2010.9.12
ミュージシャンがとことん追求して究極のレベルの「音楽」ができあがると、そこでホンモノかどうかが分かる。究極に到達した時点で、「音楽」を超えたメッセージが浮かび上がればホンモノ、あくまで技術的・芸術的領域のみで究極が達成されてしまって、「音楽」以外に哲学が及ばないものはそれが限界。
2010.8.27
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洋の東西を問わず、書物は13-15世紀まですべて音読されていたという。それが黙読となったのは活版印刷が登場してかららしい。コピー機などなく手で書き写せざるを得なかった時代は、声に出しながら書いていたのだ。「黙って静かに読む」ことが「できない」時代の人の頭はどうなっていたのか。
2010.11.28
「先」は尖っていることが多い。「端」は落っこちるかもしれない。「先端」はあぶない。でも、その先に何があるか、先端に行かねばわからない。痛い目にあうからといって怖気づいてはいけない。真のフロンティアはそこにこそ開かれる。
2010.11.19
自然音と社会音(人工音)は大きく違う。森の小鳥のさえずりは気持ちがいいが、駅構内の録音された偽さえずりには辟易する。聴いている本人の気分にもよるが、一般に風雨雷鳴など自然音は邪魔ではないが、機械騒音などの社会音は制御したい。それでは音楽はどうか。声も含めて制御された人工音だが。
2010.11.15
アフリカのピグミー族に偶然森の中で出会った人に聞いた話。数人が歌を歌うと、他の人たちがそれに合わせてとてもきれいな和音を構成するポリフォニーを歌った。ごく自然に和音を出す感じ。非常に背の高い木々に囲まれた場所で歌が響いていた。
2010.11.14
意味のある一生を送ろうと思えば、公私ともにやることはいくらでもある。だが、自分の時間は永遠には続かない。すぐか後かはわらないが、人は必ず死ぬ。よって何を他にさきがけてやるかが重要になる。その順番はどこにも書かれていない。刻一刻と進む時間と状況の中、自ら決めていかねばならないのだ。
2010.11.3
台風は枕草子、源氏物語の頃は「野分(のわき、のわけ)」。沖縄ではカジフチやテーフーとも呼ばれるらしい。欧米ではハリケーン、タイフーン、インドではサイクロン、フィリピンではバギョか。逆に「ジャズ」は世界中で頻繁に使われるが、中身が地域・使用する人によってかなり異なる。共通定義なし。
2010.10.31
ハロウィーンの起源はケルト人にあるという。10/31がケルトの1年の最後の日で、この夜に死者霊、精霊、魔女が出てくるのを仮面をかぶって身を守り、火を焚いて魔よけとしたらしい。それがまわりまわって日本のビジネスと結びついた。ヴァレンタインもそうだが、信仰と商業は古来結びつきやすい。
2010.10.21
Nik Baertsch はスイス・ドイツ語圏出身だから犬はヴァウヴァウと鳴く。でも同じスイスでも少し移動すれば、犬は別の鳴き方をする。フランス語、イタリア語、レート・ロマンシュ語も「国語」だ。スイス人は多国語を操る人が多いから、犬の鳴き方も四つや五つは覚えているだろう。
2010.10.11
言葉は危うい。ジャズと言えば、ある人は黒人トランペッターが咆哮する図を思い、ある人は見目麗しい女性がしとやかに歌う図を想像する。またある人はジャンルをまったく超えた「ナンだかわからないが凄い」フリーなインプロビゼーションをも思う。どれも正しいが、どれも誤り。真実は言葉に宿らず。
2010.10.10
近くの神社で大祭があるというので、その宣伝の車が録音された祭囃子を流しながら走っている。でも何かおかしい。囃子が日本でない。特に太鼓の叩き方だ。クラブ・ビートのように拍が頭にあり、かつ正確すぎるくらいにその「頭の頭」にビートが来ている。本来の囃子では太鼓はもっと「抜けている」。
2010.9.18
分類と統合はいつでも、どこでも大事。分類せずに理解は深まらないが、分類にとどめて統合せずば本旨を逃す。統合された最終形のみを求めては、そのよって立つあり方やプロセスを理解せず。真理は分類と統合の一極にはあらず、常に揺れ続ける運動の中にひょっこり顔を覗かせる。その瞬間を捉えるが真。
2010.9.13
音楽について「エンタテインメント」と「芸術」という二大分類ができると仮定する。「芸術」音楽を聴いて楽しくなったらそれは「エンタテインメント」なのか。逆に、いわゆる「エンタテインメント」音楽を聴いて、芸術的感慨を持ったら、それは「芸術」か。こういう仮定が間違いか。或いは定義問題か。
2010.9.12
ミュージシャンがとことん追求して究極のレベルの「音楽」ができあがると、そこでホンモノかどうかが分かる。究極に到達した時点で、「音楽」を超えたメッセージが浮かび上がればホンモノ、あくまで技術的・芸術的領域のみで究極が達成されてしまって、「音楽」以外に哲学が及ばないものはそれが限界。
2010.8.27
by invs
| 2010-11-28 21:03