2011年 10月 25日
The Core featuring Jonas Kullhammar (ザ・コア フィーチャリング ヨナス・クルハマー) 日本ツアー感想 |

The Core featuring Jonas Kullhammar (ザ・コア フィーチャリング ヨナス・クルハマー) 日本ツアーが終わり、幾つかのことが頭に浮かぶ。最も印象に残ったのは、「曲」におけるインプロヴィゼーション、即興の位置づけだ(以下、音楽業界の方には釈迦に説法)。
ロックやポップで典型的に扱われるインプロは、一曲、それも大部分は歌が中心のもののごく一部をギターやキーボードなどでなされる。それに比べ、ジャズではインストゥルメンタルのみで構成される曲が多いことから、インプロは自ずと増え、かつ多様な形態をとる。
これ全編インプロという曲もあれば、定型メロディーの合間にのみかろうじて演奏されるインプロもある。この定型メロディー部分が少なくなり、場合によってはその部分までも楽器によってはかなりのインプロを行うという形もある。
「曲」とは何かということから定義しないと、多分、議論百出して結論を得ずになるだろう。もっといえば、結論などというものを予期すること自体が誤りという考え方もある。音楽は人により様々に解釈される。誰の意見が正しいというものではない。そういうことを知った上で、敢えて考えてみよう。
曲を「音が鳴っているか否かにかかわらず、ある時間が経過したものを作品として作者(演奏者)が提示したもの」だとする。無音が30分続いても作品になるし、インプロだけ30秒でも作品になる。一般的には音が出ていないと曲とは認定しないのだろうが、仮に冒頭1分間音が出ていて、次に20分無音の状態があった場合、これは作品になる。音楽とは時間の経過の意識的作品化と言ったらどうだろうか。
The Core のライヴを聴いて思ったのは、インストゥルメンタル作品における事前作曲部分とライヴでのインプロのせめぎ合いだ。どちらかといえば長尺の曲の大部分を占めるのはインプロだが、全体構成としてのコード進行(根音)のとり方、定型メロディー部分とインプロ部分との事前の配分など、いわゆる「決め」はかなりある。決してフリーではない。にもかかわらず、インプロが楽器横断的に重層化していく中で、約束事を忘れさせるような疾走感を作り出すのに成功している。
予定調和をどこまで芸術的に破るか、瞬間芸としてのインプロの勝負はそこにある。そして、その破りを際立たせるのがある程度固定されている事前作曲部分になる。背景が勝手にいつでも動いていては前景がぼやけてしまう。The Core のようなジャズバンドのライヴはそこが「生き物」だ。
その「生き物」をいきいきとさせるのが素晴らしいライヴバンドということになる。今回のThe Core の日本ツアーでは、毎晩「生き物」は活発に動き、そのつど違う顔を見せてくれた。
by invs
| 2011-10-25 09:52
| The Core