2012年 05月 21日
日比谷カタン & Friends Pit Inn 公演 |
昨夜、日比谷カタン & Friends公演が 新宿のPit Inn で行われた。
カタンはもとより、Friends として出演した「天国」と"sajjyanu" もかなりの曲者だった。さすが、カタンの目にかなった「お友達」は普通の友達ではない。それぞれの個性が際立っているのは当然として、日本の舞台芸術でよく見られる「借り物」の域を脱している。それには、基本としての確かな技術と、技術を演奏としてプレゼンテーションする意識、もっといえば思想が大事になる。
天国はドラマ性だ。ピアノをバックに歌うというスタイルは限りなくあるが、彼らは歌詞と声の適所配置がピアノとうまくマッチングしている。音(サウンド)としてのヴォイスと、メロディーやリズムを伴った歌の振り分けを、一つの楽器(ピアノ)の統一感のもと、巧みに行う。笑いを誘う歌詞と曲の転換(例えば、長調から短調、また戻る)も、全体のドラマ仕立ての枠組みがあってこそ生きてくる。よく伸びる声、速弾きも地味なバックも手を抜かないピアノ、二人だけのステージに豊饒なストーリーが展開する。ラテン的フレーズが垣間見えたと思うと、日本の田舎・民謡的土着ラインが提示される中、聴衆はあちらこちらのドラマの中に放り込まれる。
続いて登場したのはsajjyanuだ。アメリカの John Zorn が主宰する異色レーベル Tzadik からCDをリリースしていることからもわかるように、音楽における束縛を解放しようとする実験性に満ちている。「最後の曲です」といって一曲目が始まったバンドを見たのはこれが初めてだった。実際、30分の長尺曲で、確かにこの日最初で最後の曲となった。すべてインストルメンタルで、変拍子を多用、それもツイン・ギターとドラムという構成でベースがいない。二台のギターのユニゾンやハーモニーを、驀進するドラムが同時並行的に「ユニゾン化」してしまうという攻撃性が特徴とみた。もっとも、要所要所に突然極めてメロディックな、でも非常に短いフレーズを挟み込むことは忘れない。音量は大きく、エネルギーは計量機の限界を超えている。
二組の友達の後に、それらの演奏を個人的に堪能してしまったカタンがいつものようにギターを抱え、着物(風)姿で現れた。着物なのにハードなブーツを履いている。ステージでは外したが、大き目のメガネもかけている。髪の色と形は着物と果たして調和しているのか。だいたい出で立ちが錯綜系だが、これがシンボリックでもある。カタンの曲と演奏は錯綜している。もちろん、いい意味でだ。
演奏は既に定番となっている曲、最近随分と「人気が出てきた」日本歌謡声色風メドレーものなど、カタン節は相変わらずだ。ステージ上で意識しだしたら、同時にギターを弾いて歌を歌うのが難しくなるであろう曲が繰り出される姿は、一種手品師の感じもある。実際にはどこにも、裏の操作も目くらましもないのだが、どこかタネアカシを望む心境となる。ああいう声を出し、ああいうギターを弾くミュージシャンはいるが、両方を同時に一人で出すミュージシャンは見たことがない。ところが、それだけでは済まない。一たび演奏が終われば、そこは饒舌、噺家の世界となる。音楽はどこに行ったのか。ここにきて、矢継ぎ早に披露されていたメロディーとリズムのラッシュは、脳力を駆使した聴衆頭脳テストの場面へと切り替わる。根底にあるのは、歌やギター、或いは「語り」の基本的技能をオリンピック的スケールでの競争に利用するのではなく、即興的に計算されつつ計算されない、スピードを伴う転換の連続へと持ち込むカタンの業(わざ)だろう。錯綜は昇華される。
公演最後のステージは三組によるセッションとなった。ヴォイスのみで、はからずも終了した演奏は、三組の心意気が同じ次元にあることを示していた。表現の仕方は三組三様だが、そこには音楽から不要な縛りを取り除き、自由に楽にしてやろうという気概が感じられた。それが、彼らの本望ではないか。だからこそ、天国は二人、sajjyanu は三人、カタンは一人という演奏形態が重要になる。そぎ落としきったユニットに説得力のある魂が宿るのだ。
photos: 前沢春美
カタンはもとより、Friends として出演した「天国」と"sajjyanu" もかなりの曲者だった。さすが、カタンの目にかなった「お友達」は普通の友達ではない。それぞれの個性が際立っているのは当然として、日本の舞台芸術でよく見られる「借り物」の域を脱している。それには、基本としての確かな技術と、技術を演奏としてプレゼンテーションする意識、もっといえば思想が大事になる。
天国はドラマ性だ。ピアノをバックに歌うというスタイルは限りなくあるが、彼らは歌詞と声の適所配置がピアノとうまくマッチングしている。音(サウンド)としてのヴォイスと、メロディーやリズムを伴った歌の振り分けを、一つの楽器(ピアノ)の統一感のもと、巧みに行う。笑いを誘う歌詞と曲の転換(例えば、長調から短調、また戻る)も、全体のドラマ仕立ての枠組みがあってこそ生きてくる。よく伸びる声、速弾きも地味なバックも手を抜かないピアノ、二人だけのステージに豊饒なストーリーが展開する。ラテン的フレーズが垣間見えたと思うと、日本の田舎・民謡的土着ラインが提示される中、聴衆はあちらこちらのドラマの中に放り込まれる。





photos: 前沢春美
by invs
| 2012-05-21 10:21
| 日比谷カタン