2014年 12月 01日
「悦楽共犯者」と Polygon Head - ライヴを見て |
11/29、青山の「月見ル君想フ」にて日比谷カタン率いる「悦楽共犯者」と Polygon Head のライヴが行われた。悦楽共犯者にとってはデビュー・ライヴだ。キーボードの本間太郎が両バンドのメンバーとしてプレイした。
悦楽共犯者で日比谷カタンの共犯を務めたのは本間太郎の他はドラムの鶴田カナコだ。基本的に日比谷カタンの持ち歌をバンドで演奏するという形をとっていた。寡作ではあるが、一曲が長めで複雑なカタンの曲を演奏するのは、バックバンドにとっては特に大変だろう。普通は使わないメロディー進行やリズム、突然のように変わるリフやタメがある。饒舌とも言える歌詞がその上に、その合間に、その下にのっているから少しでも間違えられない。そういう意味で、デビュー・ライヴとして見ると、それぞれのプレイヤーの熟練度もあって、文字通り「大変な」曲をよく演奏していた。まずはそこに大いなる拍手を送る。
久しぶりにカタンの歌と演奏を見たが、これまで以上にこなれていたというか、曲が身体になっていた。もう目をつむって、耳を塞いでもソロであれば完全演奏できるのではないか。アートは身体化すればするほどユニークになり、人にはマネができなくなる。絶対零度が−273.15 度C であるかの如く、日比谷カタンは世界の中のある一点にのみ固着できる。そのカタンが、ステージ上で他の人間と同じ曲を演奏するというのは、理論的に非常に難しい。他のメンバーも一緒に身体化しない限りはソロと同様の「絶対零度」的ポジションには至らないからだ。カタンのことだから、それは当然知った上でのチャレンジに違いない。はからずも、ライヴ終了後のステージ上で「これから逆境に耐えていく」旨発言があった(そこでの本来の表面的な意味は共演する他のバンドの「取り込み」についてではあった)が、バンドとしての「カタン化」は彼にとっての最大の課題になるであろう。
カタンの作詞作曲や演奏について書くことは、群盲象を評す(撫でる)の一人の盲者になることだが、今後横溢するであろう(いや、しないか)カタン論の一つとして残しておく。一つは、全体構造として、対極となる概念の両方を取り込む。自虐があればイジメやイジリがある。幼児がいれば成熟した大人が現れる。幻想と現実、罰に許し、ゆるさに締め付け、と対となる概念の束はかなりの数がある。もう一つには世俗の、それも多くはアンダーグラウンド的な現象への着目とそれを歌詞へと転化する物語構築力の秀逸さがある。ともすれば、日本独特の安物週刊誌的話題になり下がらないとも限らないネタを、豊かな語彙と巧みなフレーズをブラック・ユーモアや鋭い社会風刺でまとめあげ、他のアーティストが同様のことをやったとしたら「単なる気色悪い和物の世界」を普遍性のある社会的メッセージへと昇華させる。それも、そのメッセージ性を感知できない人に対してもそれなりのエンターテインメントと軽いショックを与えることは十分に計算されている。
カタンを「理解」するというのは、「理解」を理解する側のポジションによって変動され得るということを理解していなければならない。アンダーグラウンド的エンターテインメントとして、芸能的に、出し物としてとらえることも可能だし、社会現象を哲学的に語る代わりに、通りすがりの人に何がどう「せちがらい」のか平易に(歌詞は決して平易ではないが、ライヴ全体としての親近感に基づく説得性がある)辻説法しているとも言える。或いは、そういう「理解」を拒否するために、予め理解不能に陥るよう何重もの堀と罠と仕掛けと武器により完全武装をはかっている裸のカタンがいるのかも知れない。
悦楽共犯者で日比谷カタンの共犯を務めたのは本間太郎の他はドラムの鶴田カナコだ。基本的に日比谷カタンの持ち歌をバンドで演奏するという形をとっていた。寡作ではあるが、一曲が長めで複雑なカタンの曲を演奏するのは、バックバンドにとっては特に大変だろう。普通は使わないメロディー進行やリズム、突然のように変わるリフやタメがある。饒舌とも言える歌詞がその上に、その合間に、その下にのっているから少しでも間違えられない。そういう意味で、デビュー・ライヴとして見ると、それぞれのプレイヤーの熟練度もあって、文字通り「大変な」曲をよく演奏していた。まずはそこに大いなる拍手を送る。
久しぶりにカタンの歌と演奏を見たが、これまで以上にこなれていたというか、曲が身体になっていた。もう目をつむって、耳を塞いでもソロであれば完全演奏できるのではないか。アートは身体化すればするほどユニークになり、人にはマネができなくなる。絶対零度が−273.15 度C であるかの如く、日比谷カタンは世界の中のある一点にのみ固着できる。そのカタンが、ステージ上で他の人間と同じ曲を演奏するというのは、理論的に非常に難しい。他のメンバーも一緒に身体化しない限りはソロと同様の「絶対零度」的ポジションには至らないからだ。カタンのことだから、それは当然知った上でのチャレンジに違いない。はからずも、ライヴ終了後のステージ上で「これから逆境に耐えていく」旨発言があった(そこでの本来の表面的な意味は共演する他のバンドの「取り込み」についてではあった)が、バンドとしての「カタン化」は彼にとっての最大の課題になるであろう。
カタンの作詞作曲や演奏について書くことは、群盲象を評す(撫でる)の一人の盲者になることだが、今後横溢するであろう(いや、しないか)カタン論の一つとして残しておく。一つは、全体構造として、対極となる概念の両方を取り込む。自虐があればイジメやイジリがある。幼児がいれば成熟した大人が現れる。幻想と現実、罰に許し、ゆるさに締め付け、と対となる概念の束はかなりの数がある。もう一つには世俗の、それも多くはアンダーグラウンド的な現象への着目とそれを歌詞へと転化する物語構築力の秀逸さがある。ともすれば、日本独特の安物週刊誌的話題になり下がらないとも限らないネタを、豊かな語彙と巧みなフレーズをブラック・ユーモアや鋭い社会風刺でまとめあげ、他のアーティストが同様のことをやったとしたら「単なる気色悪い和物の世界」を普遍性のある社会的メッセージへと昇華させる。それも、そのメッセージ性を感知できない人に対してもそれなりのエンターテインメントと軽いショックを与えることは十分に計算されている。
カタンを「理解」するというのは、「理解」を理解する側のポジションによって変動され得るということを理解していなければならない。アンダーグラウンド的エンターテインメントとして、芸能的に、出し物としてとらえることも可能だし、社会現象を哲学的に語る代わりに、通りすがりの人に何がどう「せちがらい」のか平易に(歌詞は決して平易ではないが、ライヴ全体としての親近感に基づく説得性がある)辻説法しているとも言える。或いは、そういう「理解」を拒否するために、予め理解不能に陥るよう何重もの堀と罠と仕掛けと武器により完全武装をはかっている裸のカタンがいるのかも知れない。
by invs
| 2014-12-01 11:53
| 日比谷カタン

