2015年 02月 05日
In the Country 今週来日 - 映画のベースとなった著作の原作者 |
ノルウェーのバンドIn the Countryはあと数日で来日となる。ツアーではサイレント映画にライヴ音楽を付けるというレアな公演が通常公演とは別に行われる。初日の日曜日昼間の新宿 Pit Inn と来週10日の上越だ。
ノルウェーのサイレント映画『土の恵み』は 1920 年代に製作されたものだが、ストーリーの原作者はKnut Hamsun(クヌート・ハムスン)とういノーベル文学賞受賞者(『土の恵み』で受賞)だ。
ノルウェー生まれの彼だが、もともと貧しく、多くの職を転々とした。アメリカに行って路面電車の車掌もやっている。まさに波乱万丈の一生だ。いくつか著名な作品を残しているが、その中で 『飢え』、 『牧神』、 『愛の悲しみ -ヴィクトリア』、 『土の恵み』が1920年代から 50年代にかけて邦訳されている。
Hamsunの作品は何人かの日本人作家に影響を与えたと言われているが、特に林芙美子のことが知られている。今回の In the Country ツアーでは上越でも映画+ライヴ公演があるが、林芙美子が偶然にも今回公演がある上越市の直江津と縁があり、そこでの経験を作品にしている(1928年作「放浪記」)。
Knut Hamsunの生涯についての概略をノルウェー王国大使館の公式サイトより以下、引用しておく。
1859
8月4日、クヌート・ペデシェン(クヌート・ハムスン)は、父ペーデル・ペデシェンと母トーラ・ペデシェンの息子として、ノルウェー東部グブランスダール地方に生まれる。ガルモー*教会で洗礼を受ける。
*オップラン県ヴォーゴー(地方自治体)にある地区には生家が保存されている。
1862
ペデシェン家は、ノルウェー北部ハーマレイ島*に移住する。
*ヌールラン県にある島
1868-1873
学校に通う。ハムスンは、一家が居住するハムスン地区から5キロ程離れた牧師館で暮らす厳格な叔父ハンス・オルセンのもとで過ごす。
1874
6年間に渡る学校生活を終了する。(総出席日数は252日。)グブランスダール地方のロム*に移り、名付け親トーシュテン・ヘストハーゲンのもとで過ごす。10月4日、ロム教会で堅信礼を受ける。堅信礼の後、トーシュテンの雑貨店を手伝う。その後ハーマレイ島に戻り、近郊にあるトラーネイ島**の豪商ヴェルセーのもとで販売員として働く。
* グブランスダール地方の西端にある町
**ヌールラン県にある島
1875
ノルウェー北部で行商を行う。
1876
ボードー*で靴屋の見習いとなる。
*ヌールラン県で最大の町
1877
処女作Den Gaadefulge(『謎めいたもの』)が G・ヒェルセット印刷で印刷され、トロムソ*のウルダール出版から出版される。ボー**で保安官助手として勤務する。その後、教師に転職する。作品を発表するに際して、複数の名前***を使用することになる。
*ノルウェー北部のトロムス県で最大の町
**トロムス県のヴェステローレン諸島にある町
***ハムスンは何度か名前を変更した:Pedersen > Hamsund > Hamsunn > Hamsun など。但し、発音は Pedersen 以外すべて同じ(ハムスン)。
1878
詩集Et gjensyn(『再会』)と小説Bjørger(『市民』)*を発表する。
*クヌート・ペデシェンの名前で発表した自費出版作品
1879
ヒェリンゲイ島*のK・サール氏の支援を受け、ハムスン(クヌート・ペデシェン)は詩人となるべく、ボーからハルダンゲル地方**まで旅する。秋、デンマークのコペンハーゲンの出版元フレゼリク・ヘーゲル***を農民小説 Frida (『フリーダ』)の原稿を持参して訪ねるが、出版を断られる。アウレスタ****のビョルンスチャーネ・ビョルンソン*****を訪問する。
クリスチャニア******のトムテガーテ通り11番地に居住するが、困窮生活を送ることになる。
* ノルウェー北部ヌールラン県にある島
**ノルウェー南部にあるハルダンゲルフィヨルド付近、
***デンマークの出版社(当時北欧で最大)代表 (1817-1887)。
****ノルウェー東部オップラン県の町。現在でもここにビョルンソンが晩年を過ごした館が博物館として公開されている。
*****1903 年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家 (1832-1910)
******現在のオスロ。
1880-1881
トーテン*で道路工事人夫として勤務する。アウグスト・ストリンドベリ**やフランスの自然主義作品を耽読する。イェーヴィーク***で文学の講演を行なう。
*ノルウェー東部ヘードマルク県の町
** スウェーデンの作家 (1849-1912)
***ノルウェー東部オップラン県の町
1882-1884
1882年1月、初めて渡米*する。アメリカ中西部ウィスコンシン州のエルロイで販売員やノースダコタ州の農場で農業労働者として働く。1884年、ミネソタ州ミネアポリスのクリストフェル・ヤンソンの秘書として勤める。マーク・トウェイン**に会った他、フリードリヒ・ニーチェ***や現代作家の作品を読む。1884年秋、病気のためノルウェーに帰国する。この折ヴァルドレス地方****に住む未亡人のもとに身を寄せる。
*この頃ノルウェー国内では経済状況が厳しく、多くの農民がアメリカに移住した。これは「アメリカ熱」と言われた社会現象。五大湖の西側の地域には現在でも多くのノルウェー系アメリカ人が暮らしている。
**アメリカ人作家(1835-1910)
***ドイツの哲学者 (1844-1900)
****ノルウェー東部ブスケルー県山岳部にある地方
1885
短い記事を様々な新聞に掲載する。この年初めて Hamsund の「d」を取る。
1886
冬、クリスチャニアに向かう。そこで飢えと貧困を経験することになる。4月、初めての講演旅行をアウルダールでな行う。8月、二度目の渡米。
1887
2ヶ月ほどイリノイ州シカゴで路面電車の車掌として勤務した他、ミネソタ州ミネアポリスでは農業労働者、記者、講演者としても勤務する。
1888
夏、アメリカを離れ、コペンハーゲンに滞在する。滞在中、エーリクとアマリエ・スクラム夫妻*、ゲオウとエドヴァルド・ブランデス兄弟**と会う。8月、29歳の誕生日を迎える。しかし、この年から1歳さばを読みはじめる。11月、コペンハーゲンのNy Jord紙に Sult (『飢え』)の最初の数章を匿名で発表する。
* デンマークの作家 (1847-1923)とノルウェーの女流作家 (1866-1905)
**共にデンマークの文芸批評家 (1842-1927, 1847-1931)。特に兄ゲオウ・ブランデスは同時代の北欧作家に大きな影響を与えた。
1889
コペンハーゲン学生協会で「現代アメリカの精神生活」という講演を行なう。ヴァルドレス地方とクリスチャニアに向かう。Fra det moderne Amerikas Aandsliv(『現代アメリカの精神生活から』)と Lars Oftedal (『ラーシュ・オフテダール』)を発表する。小説 Sult 『飢え』*を継続して執筆する。
*多くの作家に影響を与えた作品で、日本では林芙美子がこれにヒントを得て『放浪記』を書き始めたとされる。
1890
コペンハーゲンに戻る。本名で『飢え』を発表する。リッレサン*に向かい、そこでSmaabyliv (『小さな町での生活』)、Fra det ubevidste Sjæleliv (『無意識の精神生活から』)を執筆する。
*ノルウェー南部アウストアグデル県の町
1891
ノルウェーで講演旅行を行う。Sult (『飢え』)がドイツ語に翻訳され、ベルリンのS・フィッシャー書店から発表する。サルプスボルグ*とクリスチャンスン*に滞在する。
*ノルウェー東部エストフォル県の町
** ノルウェー西部ムーレ・オグ・ロムスダール県の町
1892
クリスチャンスンを離れ、コペンハーゲンに向かう。小説 Mysterier(『神秘』)を発表する。様々な場所を転々とする生活を送る。
1893
Redaktør Lynge (『編集長リンゲ』)を出版する。パリに向かう。小説 Ny Jord(『新しき土地』)を発表する。
1894
パリでアウグスト・ストリンドベリに会う。夏、クリスチャンサンに向かう。再びパリに戻り、ポール・ヴェルレーヌ*、ポール・ゴーギャン**、ヘアマン・バング***、ヨハン・ボイエル****、アルベルト・ランゲン*****と会う。12月6日、Pan(『パン(牧神)』)を発表する。
*フランスの作家 (1844-1896)
**フランスの画家 (1848-1903)
*** デンマークの作家 (1857-1912)
****ノルウェーの作家 (1872-1859)
*****ドイツの出版元
1895
戯曲Ved Rigets Port (『王国の門にて』)を発表する。夏、フォーベルグ*、クリスチャニア、ヤーン**に向かう。戯曲Livets Spil (『人生の戯れ』)を執筆する。
*ノルウェー東部オップラン県にある町
**オスロ市西部にある地区
1896
エドヴァルド・ムンク*がハムスンのエッチングを製作する。ハムスンはミュンヘンに向かい、一時期彼の出版元であるアルベルト・ランゲンのもとに滞在する。4月28日、Livets Spil (『人生の戯れ』)が出版される。夏、ノルウェーに向かう。ドイツの雑誌Simplicissimusに小説を発表する。アウルダール**のエーリク・フリーデンルンのもとやヴァルドレス地方の別の場所に滞在する。クリスチャニア劇場が10月28日にVed Rigets Port (『王国の門にて』)を、12月4日にLivets Spil (『人生の戯れ』)をそれぞれ上演(初演)する。
*ノルウェーの画家 (1863-1944)
**ノルウェー東部オップラン県の町
1897
ヤーンのハンメル夫人の下宿に滞在する。1月30日、学生協会で講演「詩人の詩の過大評価に対して」を行なう。ベルグヨート・ゲプフェルト(旧姓バック)*と会う。短編集 Siesta (『シエスタ』)を発表する。
* (1873-1950)
1898
5月13日、ベルグヨートと結婚する。7月3日、 Aftenrøde(『夕焼け』)を発表する。同作品は10月10日クリスチャニア劇場で上演(初演)される。Victoria (『ヴィクトリア』)を出版する。ハムスンとベルグヨートはフィンランドの首都ヘルシンキに向かう。
1899
アルベルト・エングストレム*とヤン・シベリウス**に会う。ヘルシンキ大学で講演「詩人の生活」を行なう。ロシア、コーカサス、トルコへ向かう。
*スウェーデンの作家 (1869-1940)
**フィンランドの作曲家 (1865-1953)
1900
コペンハーゲンに滞在する。その後、育ったハーマレイ島に戻る。Munken Vendt (『牧師ヴェント』)を執筆する。秋、再びコペンハーゲンに向かう。
1901
クリスチャニアとコペンハーゲンに滞在する。ロシア、コーカサス、トルコ旅行を題材に取り組む。
1902
8月15日、娘ヴィクトリアが誕生する。詩劇 Munken Vendt (『牧師ヴェント』)を発表する。ハムスンは、ビョルンソンの70歳の誕生記念出版物に詩を贈る。
1903
紀行文 I Æventyrland (『おとぎの国で』)、戯曲Dronning Tamara (『女王タマラ』)、短編集 Kratskog (『伐採林』)を次々と発表する。グスタフ・ヴィーゲラン*が胸像を製作する。
*ノルウェーの彫刻家 (1869-1943)
1904
詩 Det vilde Kor (『荒々しい合唱隊』)、小説 Sværmere (『夢想家たち』)や記事をフォルポステン紙に発表する。芸術奨学金を得る。クリスチャニア、ドローバック*、コペンハーゲンやサムソー**に滞在する。ヨハンネス・V・イェンセン***に会う。
*ノルウェー東部アーケシュフース県の町
**デンマークにある島
***デンマークの作家 (1873-1950)
1905
1月15日、国立劇場で Dronning Tamara (『女王タマラ』)が上演(初演)される。ドローバックに家を建て、居住する。記事や詩を書いてスウェーデンとの同君連合解消問題に参加する。Stridende Liv (『抗争する生命』)を発表する。
1906
ベルグヨートと離婚する。クリスチャニア郊外のノーシュトラン*の民宿に滞在し、放浪者を扱った作品を執筆する。Under Høstsjærnen (『秋空の下で』)を出版する。
*オスロ市南部にある地区
1907
父ペーデル・ペデシェンが死去するが、故郷での埋葬には立ち会わなかった。それまでに三度断っていた学生協会で講演「若者をたたえる」を行なう。夏、コングスベルグ*に滞在する。『ハムスン全集(5巻本)』が出版される。
*ノルウェー東部ブスケルー県にある町
1908
エルヴェルム出身の女優アンネ・マリーエ・アンネシェン(マリーエ・ラーヴィーク)*と出会う。Benoni (『ベノニ』)を発表する。夏、コングスベルグに滞在する。6月17日、クリスチャニアでのヘンリック・ヴェルゲラン**生誕100周年記念行事でスピーチを行う。Rosa (『ローサ』)を発表する。
*ノルウェーの女優 (1881-1969)
**ノルウェーの作家 (1808-1845)
1909
6月25日、マリーエと結婚する。エステルダール地方*のソールリーエンに向かう。小説En Vandrer spiller med Sordin (『一放浪者の爪弾き』)を出版する。
*ノルウェー東部の地方
1910
1月、フランスのリビエラに向かう。秋、アウルダールに向かう。モーンブラーデ紙に Teologen i Æventyrland (「おとぎの国の神学者」)を発表する。4月26日、ビョルンソン逝去に際し、ハムスンは一編の詩を贈る。コッパング*、その後エルヴェルム**に移る。ヴェルデンスガング紙に Landets Sprog (『国語』)および Et Ord til os (『我々への言葉』)を掲載する。11月16日、国立劇場で Livets ivold (『人生に打ちひしがれて』)***が上演(初演)される。
*/**共にノルウェー東部ヘードマルク県の町
***『人生の暴力』とも訳される
1911
ヌールラン県ハーマレイ島の保安官館スコーグハイムを購入する。増改築後、マリーエと共に、作家兼農民として暮らす。
1912
3月6日、息子トーレが誕生する。秋、Den sidste Glæde (『最後の喜び』)を発表する。
1913
ハーマレイ島スコーグハイムとボードーで過ごす。小説 Børn av Tiden (『時代の子供』)を発表する。
1914
5月3日、息子アーリル誕生。ハーマレイ島のスコーグハイムとバルドゥー*で過ごす。第一世界大戦勃発に際し、ドイツへの支持を明らかにする。クリステン・コリン教授**やウィリアム・アーチャー***との議論が始まる。
*ノルウェー北部のフィンマルク県の町
**クリスチャニア大学教授
***イギリスの翻訳家 (1856-1924)
1915
1月16日、モーンブラーデ紙に子供を殺害した者への死刑復帰を主張する記事 Barnet (『子供』)を発表。ハシュタ*に滞在し、Segelfoss (『セーゲルフォスの町』)を執筆/出版する。10月23日、娘エリノール誕生。
*ノルウェー北部のトロムス県にある町
1916
Markens Grøde (『土の恵み』)を落ち着いて執筆するために、ヌールラン県内を転々とする。なかでもハーマレイ島のクロークモーに長く滞在する。
1917
ハーマレイ島スコーグハイムの館を売却し、ラルヴィーク*へ移住する。5月13日、娘セシリエ誕生。7月12日、アフテンポステン紙に随筆 Nabobyen (『近隣都市』)が掲載される。秋、小説Markens Grøde (『土の恵み』)を発表。
* ノルウェー東部ヴェストフォル県の町
1918
評論Sproget i Fare(『危機に瀕する言葉』)を発表し、1917年の正書法改正(リクスモールのノルウェー語化)への反対を表明する。家族と共にグリムスタ近郊のネールホルムに移住する。
1919
1月6日、母トーラ・ペデシェン死去。
1920
執筆のため、アーレンダール*に長く滞在する。小説 Konerne ved Vandposten (『井戸端の女たち』)を発表する。12月10日、Markens Grøde (『土の恵み』)でノーベル文学賞を受賞する。
* ノルウェー南部アウスト(東)アグデル県の町
1921
アーレンダールで執筆する。Det vilde Kor(『荒々しい合唱隊』)の第二版を Dikte (『詩』)という題名で発表する。
1922
ネールホルムの自宅に書斎「詩人の部屋」を構える。アーレンダールとネールホルムで執筆する。
1923
秋、Siste Kapitel (『最後の章』)を発表する。
1924
大晦日、ノルウェー人有志がGyldendalske Boghandel Nordisk 出版オスロ本社 (現在のユルデンダール出版)の買収に成功する。買収成功は、ハムスンの文学的才能と財力による、同社への大きな影響力があったためと考えられる。買収時の投資額は、同社資本の1/6程度だったとされる。
1925
ネールホルムとリッレサンで執筆する。
1926
オスロ市内のヴィクトリアホテルに滞在し、ヨハンネス・イルゲンス・ストレンメ医師の精神療法を受ける。夏、ネールホルムに戻り、アウグスト三部作の第一巻 Landstrykere (『放浪者たち』)の一部を執筆する。一時期、家族と共に、オスロ市ビュグドイ地区のムンケダール通り5番地に居住する。
1927
ネールホルムに戻る。秋、Landstrykere (『放浪者たち)』を発表する。
1928
ネールホルムとリッレサンで執筆する。12月12日、アフテンポステン紙に掲載された記事 Festina lente で進歩的思想への懐疑論を表明する。
1929
8月4日、70歳の誕生日に世界各国から祝福を受ける。
1930
冬、アウルダールで過ごす。春、ネールホルムに戻る。病気になり、アーレンダールの病院で手術を受ける。アウグスト三部作の第二巻 August (『アウグスト』)を発表する。
1931
1月、フランスのリビエラに向かう。秋、アウルダールに向かう。
1932
ネールホルムとエーゲシュン*で執筆する。
*ノルウェー南部ローガラン県の町
1933
アウグスト三部作の第三巻Men Livet lever (『しかし人生は続く』)を発表する。
1934
再びフランスを訪問する。夏、リッレサンとネールホルムに滞在する。ゲーテ賞を受賞するが、賞金1万マルクの受け取りを拒否する。
1935
オスロとネールホルムで執筆する。ハムスンは、最初に刑務所に収監されているドイツの穏健派を、その後、11月22日アフテンポステン紙に掲載された Ossietzky (『オシエツキー』)という記事で、ノーベル平和賞受賞者カール・フォン・オシエツキー*を攻撃する。
*ドイツの反戦運動家 (1889-1938)
1936
最後の小説となった Ringen sluttet (『その輪が閉じられた』)を発表する。
1937
聴力が著しく衰える。
1938
ユーゴスラビア(現クロアチア)のドブロヴニク滞在中、Ringen sluttet(『その輪が閉じられた』)の続編執筆を試みるが、断念する。
1939
8月4日、80歳の誕生日を迎えると、再び世界中の人々から祝福を受ける。9月、第二次世界大戦が勃発し、ハムスンはこれまで通りナチス・ドイツに共感し、アフテンポステン紙やナショーネン紙に親ナチスの記事を掲載する。Artikler (『記事』)を発表する。
1940
4月9日、ナチス・ドイツ軍がノルウェーを占領する。ハムスンは、戦争勃発時にプレッセディエンスト・ノルト紙にEt Ord til os (「我々への言葉」)を掲載する他、占領軍への支持を呼びかける記事を発表する。
1941-1942
ネールホルムの自宅で暮らす。親ドイツ的な記事を発表する。書簡や連絡により、ハムスンは、ドイツ軍の捕虜になっているノルウェー人の解放に貢献する。1942年4月、脳卒中で倒れる。
1943
オーストリアのベルヒテスガルテンでアドルフ・ヒトラーに謁見した際、ハムスンは、ノルウェーに駐留するナチス・ドイツ軍テルボーヴェン司令官に関する苦情を伝える。訪独後、ゲッペルス司令官にノーベル賞のメダルを贈る。
1944
人目を避けるようにしてネールホルムの自宅で生活する。3月13日、ハムスンが記した「連合軍に加担する同胞船員への訴え」がノルウェー国営放送局で放送される。
1945
5月7日、全国紙アフテンポステン紙にアドルフ・ヒトラーの死亡記事を掲載する。ナチス・ドイツ軍がノルウェーから撤退すると、ハムスン夫妻は自宅で軟禁される。ハムスンはグリムスタ市の病院に強制入院させられると同時に、グリムスタ*裁判所での裁判に反逆罪容疑で訴えられる。その後、ガブリエル・ラングフェルト医師の治療を受けることになるオスロの精神病院に移される。
自伝的小説 Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)**の構想を練る。
*ノルウェー南部のアウスト・アグデル県にある町
**『再び草に埋まった道の上で』とも訳される
1946
苦悩に満ちた入院生活を送った後、精神病院を退院する。
1947
ハムスンには反逆罪には問われなかったものの、賠償金の支払いが命じられる。
1948
Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)を執筆する。最高裁判所は、彼の賠償金を減額する。
1949-1951
Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)を出版する。視力と聴力が著しく衰えたハムスンは、人目を避けるようにしてネールホルムの自宅で静かに過ごす。
1952
2月19日、ネールホルムの自宅の寝室で死去し、同地に埋葬される。
出典:Hamsuns liv og verk ( Nasjonalbiblioteket / The National Library of Norway)
ノルウェーのサイレント映画『土の恵み』は 1920 年代に製作されたものだが、ストーリーの原作者はKnut Hamsun(クヌート・ハムスン)とういノーベル文学賞受賞者(『土の恵み』で受賞)だ。

Hamsunの作品は何人かの日本人作家に影響を与えたと言われているが、特に林芙美子のことが知られている。今回の In the Country ツアーでは上越でも映画+ライヴ公演があるが、林芙美子が偶然にも今回公演がある上越市の直江津と縁があり、そこでの経験を作品にしている(1928年作「放浪記」)。
Knut Hamsunの生涯についての概略をノルウェー王国大使館の公式サイトより以下、引用しておく。
1859
8月4日、クヌート・ペデシェン(クヌート・ハムスン)は、父ペーデル・ペデシェンと母トーラ・ペデシェンの息子として、ノルウェー東部グブランスダール地方に生まれる。ガルモー*教会で洗礼を受ける。
*オップラン県ヴォーゴー(地方自治体)にある地区には生家が保存されている。
1862
ペデシェン家は、ノルウェー北部ハーマレイ島*に移住する。
*ヌールラン県にある島
1868-1873
学校に通う。ハムスンは、一家が居住するハムスン地区から5キロ程離れた牧師館で暮らす厳格な叔父ハンス・オルセンのもとで過ごす。
1874
6年間に渡る学校生活を終了する。(総出席日数は252日。)グブランスダール地方のロム*に移り、名付け親トーシュテン・ヘストハーゲンのもとで過ごす。10月4日、ロム教会で堅信礼を受ける。堅信礼の後、トーシュテンの雑貨店を手伝う。その後ハーマレイ島に戻り、近郊にあるトラーネイ島**の豪商ヴェルセーのもとで販売員として働く。
* グブランスダール地方の西端にある町
**ヌールラン県にある島
1875
ノルウェー北部で行商を行う。
1876
ボードー*で靴屋の見習いとなる。
*ヌールラン県で最大の町
1877
処女作Den Gaadefulge(『謎めいたもの』)が G・ヒェルセット印刷で印刷され、トロムソ*のウルダール出版から出版される。ボー**で保安官助手として勤務する。その後、教師に転職する。作品を発表するに際して、複数の名前***を使用することになる。
*ノルウェー北部のトロムス県で最大の町
**トロムス県のヴェステローレン諸島にある町
***ハムスンは何度か名前を変更した:Pedersen > Hamsund > Hamsunn > Hamsun など。但し、発音は Pedersen 以外すべて同じ(ハムスン)。
1878
詩集Et gjensyn(『再会』)と小説Bjørger(『市民』)*を発表する。
*クヌート・ペデシェンの名前で発表した自費出版作品
1879
ヒェリンゲイ島*のK・サール氏の支援を受け、ハムスン(クヌート・ペデシェン)は詩人となるべく、ボーからハルダンゲル地方**まで旅する。秋、デンマークのコペンハーゲンの出版元フレゼリク・ヘーゲル***を農民小説 Frida (『フリーダ』)の原稿を持参して訪ねるが、出版を断られる。アウレスタ****のビョルンスチャーネ・ビョルンソン*****を訪問する。
クリスチャニア******のトムテガーテ通り11番地に居住するが、困窮生活を送ることになる。
* ノルウェー北部ヌールラン県にある島
**ノルウェー南部にあるハルダンゲルフィヨルド付近、
***デンマークの出版社(当時北欧で最大)代表 (1817-1887)。
****ノルウェー東部オップラン県の町。現在でもここにビョルンソンが晩年を過ごした館が博物館として公開されている。
*****1903 年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家 (1832-1910)
******現在のオスロ。
1880-1881
トーテン*で道路工事人夫として勤務する。アウグスト・ストリンドベリ**やフランスの自然主義作品を耽読する。イェーヴィーク***で文学の講演を行なう。
*ノルウェー東部ヘードマルク県の町
** スウェーデンの作家 (1849-1912)
***ノルウェー東部オップラン県の町
1882-1884
1882年1月、初めて渡米*する。アメリカ中西部ウィスコンシン州のエルロイで販売員やノースダコタ州の農場で農業労働者として働く。1884年、ミネソタ州ミネアポリスのクリストフェル・ヤンソンの秘書として勤める。マーク・トウェイン**に会った他、フリードリヒ・ニーチェ***や現代作家の作品を読む。1884年秋、病気のためノルウェーに帰国する。この折ヴァルドレス地方****に住む未亡人のもとに身を寄せる。
*この頃ノルウェー国内では経済状況が厳しく、多くの農民がアメリカに移住した。これは「アメリカ熱」と言われた社会現象。五大湖の西側の地域には現在でも多くのノルウェー系アメリカ人が暮らしている。
**アメリカ人作家(1835-1910)
***ドイツの哲学者 (1844-1900)
****ノルウェー東部ブスケルー県山岳部にある地方
1885
短い記事を様々な新聞に掲載する。この年初めて Hamsund の「d」を取る。
1886
冬、クリスチャニアに向かう。そこで飢えと貧困を経験することになる。4月、初めての講演旅行をアウルダールでな行う。8月、二度目の渡米。
1887
2ヶ月ほどイリノイ州シカゴで路面電車の車掌として勤務した他、ミネソタ州ミネアポリスでは農業労働者、記者、講演者としても勤務する。
1888
夏、アメリカを離れ、コペンハーゲンに滞在する。滞在中、エーリクとアマリエ・スクラム夫妻*、ゲオウとエドヴァルド・ブランデス兄弟**と会う。8月、29歳の誕生日を迎える。しかし、この年から1歳さばを読みはじめる。11月、コペンハーゲンのNy Jord紙に Sult (『飢え』)の最初の数章を匿名で発表する。
* デンマークの作家 (1847-1923)とノルウェーの女流作家 (1866-1905)
**共にデンマークの文芸批評家 (1842-1927, 1847-1931)。特に兄ゲオウ・ブランデスは同時代の北欧作家に大きな影響を与えた。
1889
コペンハーゲン学生協会で「現代アメリカの精神生活」という講演を行なう。ヴァルドレス地方とクリスチャニアに向かう。Fra det moderne Amerikas Aandsliv(『現代アメリカの精神生活から』)と Lars Oftedal (『ラーシュ・オフテダール』)を発表する。小説 Sult 『飢え』*を継続して執筆する。
*多くの作家に影響を与えた作品で、日本では林芙美子がこれにヒントを得て『放浪記』を書き始めたとされる。
1890
コペンハーゲンに戻る。本名で『飢え』を発表する。リッレサン*に向かい、そこでSmaabyliv (『小さな町での生活』)、Fra det ubevidste Sjæleliv (『無意識の精神生活から』)を執筆する。
*ノルウェー南部アウストアグデル県の町
1891
ノルウェーで講演旅行を行う。Sult (『飢え』)がドイツ語に翻訳され、ベルリンのS・フィッシャー書店から発表する。サルプスボルグ*とクリスチャンスン*に滞在する。
*ノルウェー東部エストフォル県の町
** ノルウェー西部ムーレ・オグ・ロムスダール県の町
1892
クリスチャンスンを離れ、コペンハーゲンに向かう。小説 Mysterier(『神秘』)を発表する。様々な場所を転々とする生活を送る。
1893
Redaktør Lynge (『編集長リンゲ』)を出版する。パリに向かう。小説 Ny Jord(『新しき土地』)を発表する。
1894
パリでアウグスト・ストリンドベリに会う。夏、クリスチャンサンに向かう。再びパリに戻り、ポール・ヴェルレーヌ*、ポール・ゴーギャン**、ヘアマン・バング***、ヨハン・ボイエル****、アルベルト・ランゲン*****と会う。12月6日、Pan(『パン(牧神)』)を発表する。
*フランスの作家 (1844-1896)
**フランスの画家 (1848-1903)
*** デンマークの作家 (1857-1912)
****ノルウェーの作家 (1872-1859)
*****ドイツの出版元
1895
戯曲Ved Rigets Port (『王国の門にて』)を発表する。夏、フォーベルグ*、クリスチャニア、ヤーン**に向かう。戯曲Livets Spil (『人生の戯れ』)を執筆する。
*ノルウェー東部オップラン県にある町
**オスロ市西部にある地区
1896
エドヴァルド・ムンク*がハムスンのエッチングを製作する。ハムスンはミュンヘンに向かい、一時期彼の出版元であるアルベルト・ランゲンのもとに滞在する。4月28日、Livets Spil (『人生の戯れ』)が出版される。夏、ノルウェーに向かう。ドイツの雑誌Simplicissimusに小説を発表する。アウルダール**のエーリク・フリーデンルンのもとやヴァルドレス地方の別の場所に滞在する。クリスチャニア劇場が10月28日にVed Rigets Port (『王国の門にて』)を、12月4日にLivets Spil (『人生の戯れ』)をそれぞれ上演(初演)する。
*ノルウェーの画家 (1863-1944)
**ノルウェー東部オップラン県の町
1897
ヤーンのハンメル夫人の下宿に滞在する。1月30日、学生協会で講演「詩人の詩の過大評価に対して」を行なう。ベルグヨート・ゲプフェルト(旧姓バック)*と会う。短編集 Siesta (『シエスタ』)を発表する。
* (1873-1950)
1898
5月13日、ベルグヨートと結婚する。7月3日、 Aftenrøde(『夕焼け』)を発表する。同作品は10月10日クリスチャニア劇場で上演(初演)される。Victoria (『ヴィクトリア』)を出版する。ハムスンとベルグヨートはフィンランドの首都ヘルシンキに向かう。
1899
アルベルト・エングストレム*とヤン・シベリウス**に会う。ヘルシンキ大学で講演「詩人の生活」を行なう。ロシア、コーカサス、トルコへ向かう。
*スウェーデンの作家 (1869-1940)
**フィンランドの作曲家 (1865-1953)
1900
コペンハーゲンに滞在する。その後、育ったハーマレイ島に戻る。Munken Vendt (『牧師ヴェント』)を執筆する。秋、再びコペンハーゲンに向かう。
1901
クリスチャニアとコペンハーゲンに滞在する。ロシア、コーカサス、トルコ旅行を題材に取り組む。
1902
8月15日、娘ヴィクトリアが誕生する。詩劇 Munken Vendt (『牧師ヴェント』)を発表する。ハムスンは、ビョルンソンの70歳の誕生記念出版物に詩を贈る。
1903
紀行文 I Æventyrland (『おとぎの国で』)、戯曲Dronning Tamara (『女王タマラ』)、短編集 Kratskog (『伐採林』)を次々と発表する。グスタフ・ヴィーゲラン*が胸像を製作する。
*ノルウェーの彫刻家 (1869-1943)
1904
詩 Det vilde Kor (『荒々しい合唱隊』)、小説 Sværmere (『夢想家たち』)や記事をフォルポステン紙に発表する。芸術奨学金を得る。クリスチャニア、ドローバック*、コペンハーゲンやサムソー**に滞在する。ヨハンネス・V・イェンセン***に会う。
*ノルウェー東部アーケシュフース県の町
**デンマークにある島
***デンマークの作家 (1873-1950)
1905
1月15日、国立劇場で Dronning Tamara (『女王タマラ』)が上演(初演)される。ドローバックに家を建て、居住する。記事や詩を書いてスウェーデンとの同君連合解消問題に参加する。Stridende Liv (『抗争する生命』)を発表する。
1906
ベルグヨートと離婚する。クリスチャニア郊外のノーシュトラン*の民宿に滞在し、放浪者を扱った作品を執筆する。Under Høstsjærnen (『秋空の下で』)を出版する。
*オスロ市南部にある地区
1907
父ペーデル・ペデシェンが死去するが、故郷での埋葬には立ち会わなかった。それまでに三度断っていた学生協会で講演「若者をたたえる」を行なう。夏、コングスベルグ*に滞在する。『ハムスン全集(5巻本)』が出版される。
*ノルウェー東部ブスケルー県にある町
1908
エルヴェルム出身の女優アンネ・マリーエ・アンネシェン(マリーエ・ラーヴィーク)*と出会う。Benoni (『ベノニ』)を発表する。夏、コングスベルグに滞在する。6月17日、クリスチャニアでのヘンリック・ヴェルゲラン**生誕100周年記念行事でスピーチを行う。Rosa (『ローサ』)を発表する。
*ノルウェーの女優 (1881-1969)
**ノルウェーの作家 (1808-1845)
1909
6月25日、マリーエと結婚する。エステルダール地方*のソールリーエンに向かう。小説En Vandrer spiller med Sordin (『一放浪者の爪弾き』)を出版する。
*ノルウェー東部の地方
1910
1月、フランスのリビエラに向かう。秋、アウルダールに向かう。モーンブラーデ紙に Teologen i Æventyrland (「おとぎの国の神学者」)を発表する。4月26日、ビョルンソン逝去に際し、ハムスンは一編の詩を贈る。コッパング*、その後エルヴェルム**に移る。ヴェルデンスガング紙に Landets Sprog (『国語』)および Et Ord til os (『我々への言葉』)を掲載する。11月16日、国立劇場で Livets ivold (『人生に打ちひしがれて』)***が上演(初演)される。
*/**共にノルウェー東部ヘードマルク県の町
***『人生の暴力』とも訳される
1911
ヌールラン県ハーマレイ島の保安官館スコーグハイムを購入する。増改築後、マリーエと共に、作家兼農民として暮らす。
1912
3月6日、息子トーレが誕生する。秋、Den sidste Glæde (『最後の喜び』)を発表する。
1913
ハーマレイ島スコーグハイムとボードーで過ごす。小説 Børn av Tiden (『時代の子供』)を発表する。
1914
5月3日、息子アーリル誕生。ハーマレイ島のスコーグハイムとバルドゥー*で過ごす。第一世界大戦勃発に際し、ドイツへの支持を明らかにする。クリステン・コリン教授**やウィリアム・アーチャー***との議論が始まる。
*ノルウェー北部のフィンマルク県の町
**クリスチャニア大学教授
***イギリスの翻訳家 (1856-1924)
1915
1月16日、モーンブラーデ紙に子供を殺害した者への死刑復帰を主張する記事 Barnet (『子供』)を発表。ハシュタ*に滞在し、Segelfoss (『セーゲルフォスの町』)を執筆/出版する。10月23日、娘エリノール誕生。
*ノルウェー北部のトロムス県にある町
1916
Markens Grøde (『土の恵み』)を落ち着いて執筆するために、ヌールラン県内を転々とする。なかでもハーマレイ島のクロークモーに長く滞在する。
1917
ハーマレイ島スコーグハイムの館を売却し、ラルヴィーク*へ移住する。5月13日、娘セシリエ誕生。7月12日、アフテンポステン紙に随筆 Nabobyen (『近隣都市』)が掲載される。秋、小説Markens Grøde (『土の恵み』)を発表。
* ノルウェー東部ヴェストフォル県の町
1918
評論Sproget i Fare(『危機に瀕する言葉』)を発表し、1917年の正書法改正(リクスモールのノルウェー語化)への反対を表明する。家族と共にグリムスタ近郊のネールホルムに移住する。
1919
1月6日、母トーラ・ペデシェン死去。
1920
執筆のため、アーレンダール*に長く滞在する。小説 Konerne ved Vandposten (『井戸端の女たち』)を発表する。12月10日、Markens Grøde (『土の恵み』)でノーベル文学賞を受賞する。
* ノルウェー南部アウスト(東)アグデル県の町
1921
アーレンダールで執筆する。Det vilde Kor(『荒々しい合唱隊』)の第二版を Dikte (『詩』)という題名で発表する。
1922
ネールホルムの自宅に書斎「詩人の部屋」を構える。アーレンダールとネールホルムで執筆する。
1923
秋、Siste Kapitel (『最後の章』)を発表する。
1924
大晦日、ノルウェー人有志がGyldendalske Boghandel Nordisk 出版オスロ本社 (現在のユルデンダール出版)の買収に成功する。買収成功は、ハムスンの文学的才能と財力による、同社への大きな影響力があったためと考えられる。買収時の投資額は、同社資本の1/6程度だったとされる。
1925
ネールホルムとリッレサンで執筆する。
1926
オスロ市内のヴィクトリアホテルに滞在し、ヨハンネス・イルゲンス・ストレンメ医師の精神療法を受ける。夏、ネールホルムに戻り、アウグスト三部作の第一巻 Landstrykere (『放浪者たち』)の一部を執筆する。一時期、家族と共に、オスロ市ビュグドイ地区のムンケダール通り5番地に居住する。
1927
ネールホルムに戻る。秋、Landstrykere (『放浪者たち)』を発表する。
1928
ネールホルムとリッレサンで執筆する。12月12日、アフテンポステン紙に掲載された記事 Festina lente で進歩的思想への懐疑論を表明する。
1929
8月4日、70歳の誕生日に世界各国から祝福を受ける。
1930
冬、アウルダールで過ごす。春、ネールホルムに戻る。病気になり、アーレンダールの病院で手術を受ける。アウグスト三部作の第二巻 August (『アウグスト』)を発表する。
1931
1月、フランスのリビエラに向かう。秋、アウルダールに向かう。
1932
ネールホルムとエーゲシュン*で執筆する。
*ノルウェー南部ローガラン県の町
1933
アウグスト三部作の第三巻Men Livet lever (『しかし人生は続く』)を発表する。
1934
再びフランスを訪問する。夏、リッレサンとネールホルムに滞在する。ゲーテ賞を受賞するが、賞金1万マルクの受け取りを拒否する。
1935
オスロとネールホルムで執筆する。ハムスンは、最初に刑務所に収監されているドイツの穏健派を、その後、11月22日アフテンポステン紙に掲載された Ossietzky (『オシエツキー』)という記事で、ノーベル平和賞受賞者カール・フォン・オシエツキー*を攻撃する。
*ドイツの反戦運動家 (1889-1938)
1936
最後の小説となった Ringen sluttet (『その輪が閉じられた』)を発表する。
1937
聴力が著しく衰える。
1938
ユーゴスラビア(現クロアチア)のドブロヴニク滞在中、Ringen sluttet(『その輪が閉じられた』)の続編執筆を試みるが、断念する。
1939
8月4日、80歳の誕生日を迎えると、再び世界中の人々から祝福を受ける。9月、第二次世界大戦が勃発し、ハムスンはこれまで通りナチス・ドイツに共感し、アフテンポステン紙やナショーネン紙に親ナチスの記事を掲載する。Artikler (『記事』)を発表する。
1940
4月9日、ナチス・ドイツ軍がノルウェーを占領する。ハムスンは、戦争勃発時にプレッセディエンスト・ノルト紙にEt Ord til os (「我々への言葉」)を掲載する他、占領軍への支持を呼びかける記事を発表する。
1941-1942
ネールホルムの自宅で暮らす。親ドイツ的な記事を発表する。書簡や連絡により、ハムスンは、ドイツ軍の捕虜になっているノルウェー人の解放に貢献する。1942年4月、脳卒中で倒れる。
1943
オーストリアのベルヒテスガルテンでアドルフ・ヒトラーに謁見した際、ハムスンは、ノルウェーに駐留するナチス・ドイツ軍テルボーヴェン司令官に関する苦情を伝える。訪独後、ゲッペルス司令官にノーベル賞のメダルを贈る。
1944
人目を避けるようにしてネールホルムの自宅で生活する。3月13日、ハムスンが記した「連合軍に加担する同胞船員への訴え」がノルウェー国営放送局で放送される。
1945
5月7日、全国紙アフテンポステン紙にアドルフ・ヒトラーの死亡記事を掲載する。ナチス・ドイツ軍がノルウェーから撤退すると、ハムスン夫妻は自宅で軟禁される。ハムスンはグリムスタ市の病院に強制入院させられると同時に、グリムスタ*裁判所での裁判に反逆罪容疑で訴えられる。その後、ガブリエル・ラングフェルト医師の治療を受けることになるオスロの精神病院に移される。
自伝的小説 Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)**の構想を練る。
*ノルウェー南部のアウスト・アグデル県にある町
**『再び草に埋まった道の上で』とも訳される
1946
苦悩に満ちた入院生活を送った後、精神病院を退院する。
1947
ハムスンには反逆罪には問われなかったものの、賠償金の支払いが命じられる。
1948
Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)を執筆する。最高裁判所は、彼の賠償金を減額する。
1949-1951
Paa gjengrodde Stier (『再び茂みに覆われた坂で』)を出版する。視力と聴力が著しく衰えたハムスンは、人目を避けるようにしてネールホルムの自宅で静かに過ごす。
1952
2月19日、ネールホルムの自宅の寝室で死去し、同地に埋葬される。
出典:Hamsuns liv og verk ( Nasjonalbiblioteket / The National Library of Norway)
by invs
| 2015-02-05 13:48
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