2015年 07月 08日
King Crimson と 7月 |
バンド King Crimson にとって、1969 年の7月は重要な月だった。
7/5、ロンドンのハイドパークにおける Rolling Stones 公演でサポート・アクトを務めたが、それが彼らにとって最初の屋外公演で、かつ大規模公演だった。その年の4/9 にライヴ・デビューして3か月後だから「スピード昇格」だ。今や伝説となったこの公演の貴重なライヴ映像がある。1分 45 秒という短さだが、曲 "21st Century Schizoid Man" のライヴが、聴衆とともに収められている。60 年代後半のヒッピー時代のロンドン/イギリスの風俗もわかる。 その一年前、1968年夏にロンドンを訪れた時、中心街のピカデリー・サーカスにあった映画館にビートルズの "Yellow Submarine" がかかっていたことを思い出す。ピカデリー・サーカスの噴水周辺もまさにこのようなヒッピーだらけだった。
バンド・メンバー Ian McDonald の日記が楽しい。「朝起きる。バスに乗ってハイドパークのコンサートへ行く。50 万人いた。一本35分の演奏をやった。ストーンズはあまり良くなかった。食事で外へ。アパートへ戻る。大勢の人がやってきた(19人)。気分がいい。」。
翌日の7/6、ロンドンの The Marquee Club でのライヴは超満員だった。
二日後の7/7、当時Moody Blues のプロデュ―サーだったTony Clarke を Wessex Studio (高い天井を持った元教会の建物)に迎え、デビュー・アルバムの録音にとりかかる。ところがうまくいかず、Clarke との関係を断ち、自らがプロデュ―スすることを決め、7/16 には事実上録音を一旦断念した。メンバーのRobert Fripp は後に回想して「どうせ間違えるのであれば、自分たち(ミュージシャン)が間違えた方がいいと判断した」と語っている。アルバム "In the Court of the Crimson King" が歴史的な作品となった今、当時の20代ミュージシャン達の判断は正しかったと言っていいだろう。最終的に、同スタジオにてあらゆる音響エンジニアリングの「手わざ(アナログの時代だ)」を駆使して10日間で録音され、10/10にリリースされている。
このアルバムは当時ティーンエイジャーだった私には大変重要なものだった。今から思えば、ここから音楽への道なりにうっすらとした標が立ちだした。
7/5、ロンドンのハイドパークにおける Rolling Stones 公演でサポート・アクトを務めたが、それが彼らにとって最初の屋外公演で、かつ大規模公演だった。その年の4/9 にライヴ・デビューして3か月後だから「スピード昇格」だ。今や伝説となったこの公演の貴重なライヴ映像がある。1分 45 秒という短さだが、曲 "21st Century Schizoid Man" のライヴが、聴衆とともに収められている。60 年代後半のヒッピー時代のロンドン/イギリスの風俗もわかる。 その一年前、1968年夏にロンドンを訪れた時、中心街のピカデリー・サーカスにあった映画館にビートルズの "Yellow Submarine" がかかっていたことを思い出す。ピカデリー・サーカスの噴水周辺もまさにこのようなヒッピーだらけだった。
バンド・メンバー Ian McDonald の日記が楽しい。「朝起きる。バスに乗ってハイドパークのコンサートへ行く。50 万人いた。一本35分の演奏をやった。ストーンズはあまり良くなかった。食事で外へ。アパートへ戻る。大勢の人がやってきた(19人)。気分がいい。」。


このアルバムは当時ティーンエイジャーだった私には大変重要なものだった。今から思えば、ここから音楽への道なりにうっすらとした標が立ちだした。

by invs
| 2015-07-08 08:42