2018年 07月 16日
ヨイクと日本 |
ここ Tromsø (トロムソ)に 着いてからヨイクとアニミズム/祖先信仰について考えている。それというのも、こちらで会ったサーミの人々の話の中にこの手のものが頻繁に出てくるからだ。サーミの音楽を日本で紹介している以上、彼らの考え方をよく理解しておかねばならない。これまでも、サーミとアニミズム、サーミとキリスト教との関係、そしてそれらが彼らの現在の音楽にどう関わっているかについていろいろ学び、考えてはいたが、Riddu Riđđu フェスティヴァル参加を機に、より深い理解に至るとっかかりを得た。
サーミのアニミズムや祖先信仰はヨイク、それも無伴奏、即興による吟詠形態のものに最もよく表れているような気がする。サーミ以外の人々へのヨイクの紹介の仕方がほとんど音楽を通じてなされてきたため、ヨイクが「歌」として紹介されることがほとんどだが、本来は人、動物、場所などを「ヨイクする」と言い、「何々を歌う」とは言わなかった。実際、フェスティヴァル期間中、Sara Marielle Gaup(サラ・マリエル・ガウプ - デュオ Arvvas のメンバーとして数回来日している)がサーミのテント lavvu の中で突然のようにヨイクを始めた時は、場所と人とタイミングを「読んで」声を発したように感じた。「これから歌を歌います」という挨拶も、その素振りもなかった。むしろ、ヨイク自体が挨拶がわりであり、「場の気を感じて自然発生的に出てくる」ものであることがわかった。これが本来のヨイクだと思う。
かつては古代日本にも「言霊(ことだま)」信仰があり、人が発する言葉には重みがあった。故に呪詛に実現性が認められ、「言葉には気を付けなければ」ならなかった。いつからか言葉は軽くなり、呪いはお安いエンタテインメント・スピリチュアリズムのレベルにまで落ちてしまった。別に呪いの復権を唱えているわけではない。使う声や言葉に無神経であってはならないということだ。ヨイクはすべてがサーミ語でできているわけでなく、かなりの部分が意味なしのフレーズ(言葉でない発声)だったりするが、発声の抑揚やリズムと相まって言葉なき意味が発生している。
サーミのヨイクとはこういうことではないか - 究極のアナログ集合体としての人間が、人間特有の声/言葉を「出す」ことに徹底した集中を払い、それによって時、場所、人/動物/モノを世俗から解き放ち、全てから自由な永遠の時空間へ留めようとする試み。
ヨイクは 20世紀後半から少しづつ世界の人々に認知され、サーミ文化の理解度は高まっている。それでもこれまでのヨイクに対する差別は忘れてはならない。シャーマニズムが感じられたためキリスト教からは悪魔の歌とされ、それを吟じる/歌うことは罪とされた。キリスト教化が進んだ北欧地域では、ヨイクは抑圧すべきものだった。
欧米的な世界観が行き詰まり、欧米の人々ですら自らの世界観から脱するべく行動をとっている昨今、西欧的世界が排除しようとしてきたサーミ文化やヨイクに対する見直しが進んできたのは当然かもしれない。
明治に脱亜入欧を果たして(といっても根底にはそうなっていないが)はいるが、心のどこかに明治以前のアニミズム世界を少しではあるが持ち続けている日本の現代人にとって、古代日本の世界にも通じるサーミのヨイクが魅力的に映るのも無理はない。
今年は明治維新 150周年だそうだが、世界の潮流が欧米的世界観への反省を基調としている中、単純過ぎる「西欧化万歳 150年」のアナクロニズムだけは避けた方がいい。多くの先達が指摘しているように、この150年で失ったものも考えるべきだ。
ヨイクはそれを雄弁に語ってくれた。
サーミのアニミズムや祖先信仰はヨイク、それも無伴奏、即興による吟詠形態のものに最もよく表れているような気がする。サーミ以外の人々へのヨイクの紹介の仕方がほとんど音楽を通じてなされてきたため、ヨイクが「歌」として紹介されることがほとんどだが、本来は人、動物、場所などを「ヨイクする」と言い、「何々を歌う」とは言わなかった。実際、フェスティヴァル期間中、Sara Marielle Gaup(サラ・マリエル・ガウプ - デュオ Arvvas のメンバーとして数回来日している)がサーミのテント lavvu の中で突然のようにヨイクを始めた時は、場所と人とタイミングを「読んで」声を発したように感じた。「これから歌を歌います」という挨拶も、その素振りもなかった。むしろ、ヨイク自体が挨拶がわりであり、「場の気を感じて自然発生的に出てくる」ものであることがわかった。これが本来のヨイクだと思う。
かつては古代日本にも「言霊(ことだま)」信仰があり、人が発する言葉には重みがあった。故に呪詛に実現性が認められ、「言葉には気を付けなければ」ならなかった。いつからか言葉は軽くなり、呪いはお安いエンタテインメント・スピリチュアリズムのレベルにまで落ちてしまった。別に呪いの復権を唱えているわけではない。使う声や言葉に無神経であってはならないということだ。ヨイクはすべてがサーミ語でできているわけでなく、かなりの部分が意味なしのフレーズ(言葉でない発声)だったりするが、発声の抑揚やリズムと相まって言葉なき意味が発生している。
サーミのヨイクとはこういうことではないか - 究極のアナログ集合体としての人間が、人間特有の声/言葉を「出す」ことに徹底した集中を払い、それによって時、場所、人/動物/モノを世俗から解き放ち、全てから自由な永遠の時空間へ留めようとする試み。
ヨイクは 20世紀後半から少しづつ世界の人々に認知され、サーミ文化の理解度は高まっている。それでもこれまでのヨイクに対する差別は忘れてはならない。シャーマニズムが感じられたためキリスト教からは悪魔の歌とされ、それを吟じる/歌うことは罪とされた。キリスト教化が進んだ北欧地域では、ヨイクは抑圧すべきものだった。
欧米的な世界観が行き詰まり、欧米の人々ですら自らの世界観から脱するべく行動をとっている昨今、西欧的世界が排除しようとしてきたサーミ文化やヨイクに対する見直しが進んできたのは当然かもしれない。
明治に脱亜入欧を果たして(といっても根底にはそうなっていないが)はいるが、心のどこかに明治以前のアニミズム世界を少しではあるが持ち続けている日本の現代人にとって、古代日本の世界にも通じるサーミのヨイクが魅力的に映るのも無理はない。
今年は明治維新 150周年だそうだが、世界の潮流が欧米的世界観への反省を基調としている中、単純過ぎる「西欧化万歳 150年」のアナクロニズムだけは避けた方がいい。多くの先達が指摘しているように、この150年で失ったものも考えるべきだ。
ヨイクはそれを雄弁に語ってくれた。
by invs
| 2018-07-16 15:49
| 「その他」の重さ

