2025年 02月 26日
2010 年の Manfred Eicher (マンフレート・アイヒャー)のジャズ批評家 Gary Giddins との対談 |
2010 年に Manfred Eicher (マンフレート・アイヒャー / Giddins は英語読みでアイカ―と呼んでいる)がジャズ批評家 Gary Giddins とThe City University of New York で対談しているヴィデオがある。ECM 40 周年、ECM Classics 25 周年に収録された。古いが、 Eicher が公式な席に出るのは珍しいので、一部最初の部分を和訳しておく。

題名:Great Issues Forum / Public Programs for Public Mind
"Jazz: A Converstation with Manfred Eicher"
場所:The Graduate Center, The City University of New York
時:2010 年
対談相手:jazz critic Gary Giddins
ヴィデオ:FORA TV(ヴィデオ製作・配信)
Manfred を紹介するにあたって Giddins は長々と彼が得た数々の音楽賞と勲章をリストアップしている。この時点で Manfred が出席した公的な議論の場はアメリカでは初めて、ヨーロッパではスウェーデンのみだった。
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Manfred が生まれ育ったところは南ドイツの Bodensee (ボーデン湖)に面するコンスタンツ(Konstanze)にある島だっだ。湖畔の Lindau (リンダウ)で子供の頃、湖の周辺を見、鳥の鳴き声や波を聴き、影響を受けた。最初ヴァイオリンを弾き、ベースを弾きベルリン・フィルにいたが辞めた。オーケストラは素晴らしかったが、人生通じてずっとオーケストラをやりたくなかった。それは自分のやりたい音楽ではなかった。
14 才のときに Paul Chambers を聴いてベースを始めた。母親が歌手でシューベルトを聴いていたので、自分もシューベルトを聴いた。母親はシューベルト、シューマンやベートーヴェン弦楽四重奏を私に聴かせた。クラシックとは違うリズム、違う審美的なものをジャズに見つけた。それでコントラバスを始めた。
家族がお金を出してくれて、Arbitur (高校卒業資格)を得た後、ニューヨークに 18 才の時に初めて来た。そこで初めて Bill Evans を見た。1969 年レコードレーベルを始め、Mal Waldron の "Free at Last" を最初に出した。Mal Waldron はミュンヘンに来て演奏したのを見た。彼は Anthony Braxton と昼夜やっていた。彼は静かな人で Billy Holiday とのレコーデイングで知っていた。レコードを作るいいタイミングだと私たちは思った。その時はレコード会社を作るつもりはなかったが、ミュンヘンの電気会社が 16,000 ドイツマルク(4,000 ドル)を出してくれて、それで 4 枚のレコードを作った。それらがなぜか日本で売れた。日本は時々特別なものに対する変わったセンスを持っている。
ECM という名前をある晩考えたが、会社を登録するために必要だったからだ。レコードを作るだけで、計画も、アイデアも何もなかった。ドイツ・グラマフォンのクラシックのレコーデイングでアシスタントをしていたが、人が自分のことをいいリスナーだと言っていたので、プレイヤーからリスナーに変わってレコード・プロデューサーになった。
商業的に成功したのは運がよかったからだと思う。
by invs
| 2025-02-26 14:13

